「建築探訪 19」 -Shimane 3

島根県立古代出雲歴史博物館

槇文彦さん設計の 「島根県立古代出雲歴史博物館」(’07) を探訪・・
訪れた日は残念ながら曇り、写真映りが悪いです。 (上写真) 南庭のメインアプローチ通路から見る。庭が正面ガラスボックスのエントランスホールを挟んで北庭まで続いています。

島根県立古代出雲歴史博物館
敷地奥になる北庭から見る
左側本館の外部主仕上材の “赤錆び色(コールテン鋼) ” がよく効いています
ランドスケープのデザインは三谷徹さん
島根県立古代出雲歴史博物館
3層吹き抜けのエントランスホール・・ 3階展望テラスから2階カフェテラスを見る

突当たりのX型柱(筋交い)で大きな気積のエントランスホール部の水平力(地震時の横からの力)を負担している。エントランスホール部には柱がないようです・・サッシの縦材が垂直力を受ける柱として兼用されているよう・・サッシ縦横材は一見普通のサッシ材(中空のアルミ材)に見えるが、全て押出鋼材(無垢鋼材)で出来ている・・凄いです。

槇文彦さんは日本を代表する建築家・・・東大-ハーバード大院-同大準教授-東大教授という素晴らしいノーブルな経歴・・建築学会賞/毎日芸術賞/高松宮殿下記念世界文化賞/UIAゴールドメダル/建築界のノーベル賞と言われるプリッツカー賞を含め(日本人では師匠である丹下健三についで2人目、その後の安藤忠雄で日本人は計3人)・・受賞多数。

“正統派/モダニズム建築の継承者”といわれてきた槇さんの作品は 「端正」「上品」「ハイセンス」・・という言葉がピタリとはまるが・・ミースの建築スタイルに代表される様な極端なシンプルイズムを磨き上げた初期モダニズム建築の表層/スタイルだけにただ憧れて真似する多くの”モダニズム風”建築家とは一線を画した・・・「モダニズムは百年間 常に在った・・モダニズムとは、技術/環境の変化を許容をしながら、空間/形態のあり方を変えても在り続ける強靱なシステム」と仰るように・・・硬直した見せ掛けのファッション(コンクリート打放しやホワイトボックスという様なアイコンで商品化されたデザイナーズマンションのように、形骸化したファッションとなってしまったモダニズム)としてのモダニズムではなく、適応/許容/変化/成長するものとしてモダニズム建築を探究/実践されてきた・・・槇さんも80才・・スパイラル(’85) 京都国立近代美術館(’86) テピア(’89) ザルツブルグ会議場案(’92) 慶應大藤沢大学院(’93) などの”メタリック”な作品が続いていた頃の作品が特に好きで・・大学生の時、お願いして少しだけ槇事務所にてバイトさせて頂く事が出来たのは・・LUCKYでした。

「建築探訪 18」 -Kagoshima

ホテル京セラ

先月、鹿児島へ行った時 「ホテル京セラ」(’95) に泊まりました、設計は今年10月に亡くなられた黒川紀章(1934-2007)さん・・鹿児島市内からJR日豊本線で30分 隼人駅近くにあるホテル・・ちょうど桜島のある錦江湾の真北あたり・・ 

ホテル京セラ
低い建物しかない周囲を・・ 見下ろすように大きな真っ白い楕円柱型の建物が聳え建っていました・・・失礼ながら、こんなところにこんなホテルがあるなんて!!!という感じ・・
ホテル京セラ
60m以上の高さがある、大きな楕円型アトリウムを囲むように客室を配した明快な構成・・三角の部分はガラス張りのチャペル

73才で亡くなられたのは早かったけれども、若い頃からその才能を開花された黒川紀章さん・・評価の高いものは60年代/70年代に多く・・代表作である「中銀カプセルタワービル (’72) 」 では ・・工場でつくられた住空間用カプセルが偶発的に集積したような・・メタボリズムの理念を鮮烈に視覚化/表現した前衛的な建築作品を発表され・・ その後は国内外で大活躍・・・黒川紀章さんのご冥福をお祈り申し上げます。

「建築探訪 17」 -Osaka/中之島3

朝日ビル

(上写真右) 「朝日ビル」 (’31) 設計:竹中工務店 。四ツ橋筋の角地に建つ10階建てのオフィスビル、伸びやかな円弧を描くバルコニーの水平線&アール壁を強調したデザインは、御堂筋の角地に建つ素敵な素敵な美しい「大阪ガスビル」(’33)と共に昭和初期を代表する名オフィスビルですが・・・「朝日ビル」は2010年代には取り壊して超高層ビルに建替える計画だそうだ・・・戦争も乗り越えて、76才まで頑張ってきたのに・・・(上写真左・中)は1968年に西側/南側に増築された部分。

新朝日ビル

前記の「朝日ビル」の東向かい、四ツ橋筋を挟んで建つ 「新朝日ビル」 (’58) 設計:竹中工務店 。カラヤンもその音響の良さを誉めたという「フェスティバルホール」の入る建物として有名。上部の立体的なアルミプレスパネルがとてもカワイイ、建物下部は表情を変えて縦割りのアルミパネルとしているが、その”ペコペコ感”&”質感”がまたイイ、庇裏のアルミ張り&時々張っているクリーム色タイルとの組合わせがまたgood・・・何とも愛らしくて好きなビルだったんですが来年中には取り壊して2013年には超高層ビルに建替計画・・・

ダイビル

「ダイビル」 (’25)  設計:渡辺節(1884-67) 。堂島川に面して建つ8階建の大正期の賃貸オフィスビル、遠目から見るとアッサリした印象だが 外部1階やエントランスホールには濃密な装飾が施され、特に内部エントランスホールを贅沢豊穣な空間としてつくり上げるエネルギーの掛け方/仕上がりは、その後1931年に竣工した渡辺節の最高傑作と言っていい「綿業会館」に続く・・質の高い建築だが、「ダイビル」も取り壊して超高層ビルに建替る計画だ・・

中之島周辺は地下鉄新駅が出来る事もあり再開発ブームのようだ・・・「新ダイビル」 「朝日ビル」 「新朝日ビル」 「ダイビル」 等・・・中之島にある近代建築が次々と消え・・・”普通”なビルに替わっていく・・

中之島以外でも「大阪中央郵便局(’39)」 や 「大阪新歌舞伎座(’58)」 の取り壊し建替計画も伝えられ・・・近代建築だけではなく日本におけるポストモダニズム建築を代表する象徴的作品 「キリンプラザ大阪(’87)」 も出来てからわずか20年なのに・・・早くも取り壊して、建替られるそうだ・・
古いものが新しいものに替わっていくのは自然な事だから・・・「形態は機能に従う」と宣言した近代建築が、現代においてその「機能性/経済性」が時代遅れとなった時、あまりセンチメンタルな視点からだけで”取り壊し反対”を声高に叫ぶ必要はないとは思いますが、時代を代表するような希有な建築くらいは残していく努力をしなければいけないと思います・・・センチメンタルなものを伝えていく/大事にしていく事も建築/都市の重要な役割だから。

「建築探訪 16」 -Osaka/中之島 2

村野藤吾設計の新ダイビル

「新ダイビル」(’58) 設計:村野藤吾(1891-1984)。9階建てのオフィスビル、四角い箱に連続横長窓・・教科書通りの近代建築デザイン手法の範疇にありながら、村野さんのオフィスビルはどこか”艶っぽい”・・・窓と壁の比率/窓割りのプロポーション/窓と壁の納まり/タイルの質感/建物コーナーの納め方/4階部窓だけはわずかに後退させ建物角を欠いて・・本当に細かい事の積み重ねなんだけれども、それを全体に現れる”艶っぽさ”にまで昇華させるデザイナーとしての力量が素晴らしいと思います・・・

村野藤吾設計の新ダイビル
村野さんの建築はディテールがgoodです・・
エントランス廻りのステンレスサッシュを見る。竪枠にはアールを付けて壁となじませる細かなデザイン・・
村野藤吾設計の新ダイビル
階段室の階段端部を見る。端部のみ階段厚さを絞っているので、階段が薄くシャープに見えます・・
村野藤吾設計の新ダイビル
(左) エレベーターホール上部壁の上下階表示灯を見る
(右) 階段を見る。黒御影石張りの存在感のある腰壁・・
村野藤吾設計の新ダイビル

「新ダイビル」は 2011年に取り壊し予定・・ 超高層ビルに建替える計画。
比較的歴史の浅い「近代建築」に対する”一般”の評価は低い・・”素晴らしさ”は伝わらないのだろうか・・最近では屋上緑化は珍しくないですが、「新ダイビル」 には1958年の建築とは思えない様な立派な屋上庭園があります、壊される前にまた行ってみよう・・「新ダイビル」の4階外壁角にはどうして羊が居るのだろう?

「建築探訪 15」 -Osaka/中之島

大阪中之島

大阪と言えば梅田やミナミという繁華街を頭に浮かべる方が多いですが、何と言っても大阪の中心は”中之島”・・(上写真-鉾流橋から水晶橋を見る)

堂島川(上写真)と土佐堀川の間に挟まれ東から西へ・・東洋陶磁器美術館/中央公会堂/旧府立図書館/大阪市役所(上写真左部)/日銀大阪支店/フェスティバルホール/朝日新聞/ダイビル本館/国立国際美術館/ロイヤルホテル・・と3km近く続く 長い”中之島”は 人気の少ない休日に散歩するには絶好の建築探訪ルートです(岡田信一郎/辰野金吾/村野藤吾/渡辺節/吉田五十八・・特に建築好きな方には very good です・・中之島から大阪城の方へ向かえば安藤忠雄/篠原一男/竹原義二/遠藤秀平などの作品も見られます・・)。

倉敷に移るまでは中之島の近く、部屋の窓から川も見えた場所に暮らしていた頃、時々散歩していた懐かしい/お気に入りの散歩ルート・・・先月 大阪でふと時間が出来た時、久しぶりに散歩してみました・・

「建築探訪 14」 -Shimane 2 /神魂神社

出雲大社と神魂神社

出雲市の出雲大社」(左) と、松江市の「神魂神社」(右) へ行って来ました・・
「住吉造」の住吉大社(大阪、1810)、「神明造」の伊勢神宮(三重、1993)と並び称される、最古の神社形式である「大社造」の出雲大社(島根、1744)・・

出雲大社

「出雲大社」(上写真)が大きい事は知っていたが、初めて見る出雲大社-本殿は思っていたより大きかった・・唖然とするくらいに大きかった・・「さすが日本最大の神社建築」・・異様な姿には迫力が満ちていた・・本殿は塀で囲まれて近くに寄れないのだが、もし側で見たならばもっと大きいのだろう、総高24mはマンションなら8~9階並みの大きさだが・・
平安時代においては東大寺大仏殿よりも大きく総高50m近くあったそうだから今の本殿の倍だ・・縁の下の脚だけが伸びた状態だった様だが10階建てのマンションの頭を軽々越える高さだ・・信じられない光景を平安時代までの人達は目にしていた・・平安時代末までは何度も”転倒” した記録が諸書にあり、その度に再建されたそうだ・・

神魂神社

松江市南東の大庭町という森の中に楚々として建つ「神魂神社」(上写真)は「大社造」としては最古のもので1583年の建築、現在の出雲大社本殿よりも160年も古い。伊勢神宮に仁科神明宮があるように、出雲大社に神魂神社が祖型としてある。出雲大社は神魂の縦/横/高さをほぼ2倍して造られた・・高さ/長さは伸びるが材の太さは比例して大きくならない分、大社の方が間伸びして見える・・神魂の方がプロポーションが洗練されて締まっていて良い・・さすが出雲大社のオリジンだけはある。
西沢文隆さんの著によると、もとの神魂神社は今の様な”素木”ではなく”丹塗”であったに違いないそうだ、本殿内部には 朱塗りの天井を背景に五色の九重雲 が色鮮やかに描かれた空間が今もあるそうだ・・

神魂神社本殿
神魂神社本殿の横に並んで建つ小さな末社 「貴布弥稲荷神社」(室町時代) は、伸びやかな屋根と縁の浮き具合が美しい・・「二間社流造」は類例が少ない珍しい神社建築形式

「建築探訪 13」 -Osaka/梅田

BREEZE TOWER

ドイツ人新進建築家/クリストフ・インゲンホーフェン(1960- )がデザインアーキテクトとして手掛けた日本で初めての建築「BREEZE TOWER」が完成間近だ・・

凄い勢いで再開発が行われ、大きなビルが次々立ち上がって来る大阪・西梅田、ハービスプラザのすぐ南側・・近年ヨーロッパの高層オフィスビルでは多く用いられる省エネ/環境を重視したダブルスキンファサードによる自然換気型オフィスビル・・エンジニアリングとデザインとの調和を目指した・・ドイツ人らしい堅実そうな建築だ・・・国際指名コンペにて強豪-N.グリムショウ(英)、D.ペロー(仏)、M.フクサス(伊)-を押さえ彼が選ばれた・・

現在、国内外設計コンペの1等を次々獲得し続けているインゲンホーフェンは、「RWEタワー」(下左写真)を1997年に、「ブルダ・メディアパーク」(下写真中)を2001年に、「ルフトハンザ新社屋」(下写真右)を2006年に完成させ、環境/省エネ/エコロジー/場所性/居住性といったヒューマニティーな視点を重視しながら造りあげる透明性の高い端正な建築は、スター建築家が提案する奇抜な案が多い国際コンペの中にあっても存在感を放っています・・
今後も「シュトゥットガルト中央駅計画」や「欧州投資銀行計画」などの期待作の実現が待ち遠しい”スター建築家”候補の作品がいちはやく日本で見られる訳なのだが・・

クリストフ・インゲンホーフェン

日本には多くの有名海外建築家の作品があるが、やはり遠距離の為か作品に掛けるエネルギーがある程度減じてしまい、質/密度が下がってしまう感は否めない・・遠い国でのビックプロジェクト・・リスク減や安心感を考えて日本の大手と共同設計というかたちで組み、デザインアーキテクトとしておさまるケースがほとんだ、そうするとディティールやテクスチュアなど建築デザインの質を左右する部分がどうしても切れがなくなる・・彼らの本国での作品の質までには及んでいない気がします・・

「建築探訪 12」 -Shimane

出雲大社庁の舎

島根に近代建築を見に行こうと思った時、まず頭に浮かぶのが・・菊竹清訓(1928- )の設計による「出雲大社庁の舎(’63)」・・ 建物外観は、刈り取った稲を架ける 「ばでば」 からの引用・・ 頂部には50mにもおよぶPC(プレストレスコンクリ-ト)大梁を2本載せ・・用途は社務所及び宝物殿。 

出雲大社庁の舎

この様な特異な外観をしたコンクリ-トの建物を、伝統格式のある建築が配置された出雲大社の境内によく造ったなぁ・・どんな感じで調和or対峙しているんだろうなぁ・・と写真で見る度に何度も思っていました・

出雲大社庁の舎
(左) 妻面にはPCパネルを張った 構造的/構成的な独特のデザイン
(右) ファサ-ドの大部分を覆うPC製ル-バ-
出雲大社庁の舎

菊竹清訓はメタボリズム・グル-プの主要メンバ-として、60年代に高い理想と過激な作品で、来るべき社会における新しい建築の在り様を提示しようと大活躍・・日本近代建築の名住宅として名高い「スカイハウス(’58)」で見せた明快で強烈な思想&表現はそれに相応しいものだった様に思えます・・近代建築のスタティックな機能主義ではなく、ダイナミックに生物のように新陳代謝する夢の都市は・・技術的に進歩するであろう将来において、これから開花する可能性もあるかもしれない・・時代を先取りしたメタボリスト/菊竹清訓の代表作。

かねや

帰りには出雲大社のすぐ近くにある「かねや」で “出雲そば” を頂いて帰りました・・おいしかったです

「建築探訪 11」 -Okayama 3

林原美術館

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件・・ (上写真) は「岡山美術館(現 林原美術館)」(’63)。中庭を囲んだ回遊性のあるロの字型プランの小規模な美術館・・後期 前川建築を象徴する手法「打込みタイル」に至る前・・「レンガ積み外壁」が印象的な建築。

近代建築を代表する外装手法を自らの失敗の中から見直し・・前川が辿り着いたのが「打込みタイル」でした。耐久性という・・合理的側面からの試行錯誤から辿り着いた素材が、ガラス/金属/コンクリートという近代建築を象徴する工業的素材ではなく、大昔からある”焼き物”という材料だったのです。

林原美術館
前川は最初この美術館の外壁を”備前焼”で考えていたそうだが・・このボロボロの煉瓦は、四国の観音寺というところの窯にあった・・多少ねじれた様なクズを集めさせた物との事・・

「打込みタイル」という手法の発見だけでなく、前川らしい空間/建築が生まれたのも、後期70年以降の「埼玉県立博物館」(’71)や「熊本県立美術館」(’77)や「福岡市美術館」(’79)といった60才を過ぎてからの作品群ではないでしょうか。前川の師匠であるコルビュジェが「ロンシャンの教会」を完成させたのが68才、「ラ・トゥーレット修道院」が73才。建築家は60才を過ぎて頃から やっと自分らしさを建築で表現できるくらいになるのだろうか・・

「建築探訪 10」 -Okayama 2

天神山文化プラザ

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件あります。上は「岡山県総合文化センター(現 天神山文化プラザ)」(1962) 。高台に建つT字型プランのコンクリート打放しによる力強い外観を持つ複合文化施設・・前川の師匠であるル・コルビュジェを思わせる コンクリート打放し色の強い 建築。(上写真) T字の縦棒の一番底にあたる・・西側立面を道路から見る。天井ダウンライトの配置が、米粒をばらまいた様な規則性のない配置で goodです。

天神山文化プラザ

崖に囲まれ、高低差もある難しい敷地条件に・・同じような大きさの2つの直方体ヴォボリュームをT字に直交させたシンプルな配置で応答し、かつ直方体間の高さにずれをつくる事で魅力的なピロティ空間を・・建物のアプローチとなる西側道路面に作り出しています。(上写真 左) 西側立面を見上げる。右手に高い擁壁が・・建物南側はこんなにも敷地レベルが高くなっています。(上写真 右) 駐車場から南側立面を見る・・ここにもコルビュジェが得意としたデザイン手法・・「コンクリートによる日除けルーバー」が用いられています。