「建築探訪 84」-Tokyo/ 神宮外苑

TEPIA

神宮球場と秩父宮ラグビー場の間、明治神宮外苑の緑を背景に公園のパビリオンの様に建っている・・ 槇文彦さん設計の「TEPIA」(1989) 。竣工後まもなく、大学生の時に訪れ・・ それから20年以上も経っていますが・・ とても綺麗でした。「TEPIA」の別名は “機械産業記念館” …機械情報産業に関わる展示イベントや会議、セミナーやエキシビジョンの為の施設。
(上写真)道路より西側外観を見る。面と線による構成のデザインは・・オランダの建築家リートフェルトの「シュレーダー邸」が強く意識されています。

TEPIA

細かい部分までデザインされた存在感のある・・屋外階段が建物北側の広いオープンスペースの余白を埋めるチャームポイント。このオープンスペースの向こうは神宮球場。建物本体のアルミパネル出隅の処理も凝ってます。建物足下のサインも素敵です、写真では分からないのですが表面材がステンレスメッシュ、建物サイン計画はデザイナーの矢萩喜従郎さん。

TEPIA

この建物の良さは・・厳密な線により規制された面の強い垂直性。面と面の関係にさえ緊張感を感じる・・その建物全体を覆っている精度の高いアルミパネルがつくる壁面の存在感。シャープなエッジが効いた庇の水平性。目地の微妙な分割と組合せ。
(上写真) 建物の西壁面を見上げる。立面は1450mmグリッド。「とにかく建物のどこを見ても隙がない」・・その端正な外観の裏側に隠された高度で複雑な納まり・・上質な素材による美しいディテール・・職人魂さえ感じる・・非常に精度の高い工事・・ 

TEPIA

一見するとシンプルモダンで・・即物的/工業的な感じの外観からして、工事がやり易い様にも思える・・しかしこの建物は非常にレベルの高いジャパニーズクラフトマンシップがなければ・・出来ない建築。槇さんは竣工当時、この作品に関して「・・80年代日本の建築生産、施工態勢が有する技術水準とクラフトマンシップ・・この極めて高いレベルが到底、永久に持続するとも思われない・・TEPIAのような建物は貴重な時代の証としての意味をも有する・・」と言われてました。(上写真) 建物南面とオープンスペースを見る。屋外階段からも2階喫茶へ直接アプローチできますが、この階段手摺に設置されているフラワーポットは喫茶さんの趣味?・・・

TEPIA

内部に入っても、その仕上がり精度の高さや、上質なクラフトマンシップ的な素材感は変わらない・・床は大理石、壁はアルミパネルや石張り、家具はオリジナルデザインやカッシーナ・・照明器具や消火栓、EVの操作パネルまでも・・オリジナルでデザインされている・・内外通してどこを見てもハイレベルな建物です・・ (上写真)3階ホール前のロビーを見る。コルビュジェのLC7がずらりと並んでいました。
槇建築は一貫して正統モダニズムの系譜・・しかし、その槇さんの長いキャリアを見通した時にも・・時代ごとの作風の違いは感じるわけで・・TEPIAはやはり80’sな感じが強く漂っている・・ 華やかで潤沢でポジティブな80’sという時代。

「建築探訪 56」-Kumamoto 4

熊本県立劇場

前川國男の設計による「熊本県立劇場」(1982) を探訪。
(上写真) 表玄関となる西側の外観を見る。西側の表玄関から東側の裏玄関まで、建物を東西に貫通する長いモールが平面構成の主軸となっています。モールの北側にコンサートホール、モールの南側に演劇ホールが配されています。

熊本県立劇場
演劇ホールのホワイエを見る。開放的な大開口窓により、とても明るい
熊本県立劇場
夕刻の光が差し込むコンサートホールのホワイエを見る

はつり仕上げの正面コンクート壁が効いてます。ヘリンボーン調型枠で施工された階段腰コンクリート壁もgoodです。開放的な両ホワイエの様子は、この建物の約30年前に建てられたこちらの作品 から変わらずに共通するところです。

「建築探訪 50」-Miyazaki/都城

都城市民会館

どこの工場の設備機械だろうか? ・・ というこの姿。50年ほど前に宮崎県都城市に建てられた・・ れっきとした市民ホール。菊竹清訓さん設計による「都城市民会館」(1966)。

都城市民会館

こんなにインパクトのある建築はなかなかない・・ 独特の形。鉄筋コンクリート造の基壇の上に、鉄骨造の屋根が架かる構成。放射状に並んだ門型トラスが一点で集中する構造形式がつくる外観は・・まるでヤマアラシのよう。コンクリート基壇+鉄骨屋根の構成は同じく菊竹さんの設計による「島根県立図書館」(1968)と共通の手法・・ 変わらない部分(コンクリート造部) と 変わる部分(鉄骨造部) を明確に分けるという・・ この頃の菊竹的メタボリズム建築の思想。当時の菊竹事務所の担当者が内井照蔵さんというのも、内井さんの落着いた作風から思うと驚き。

都城市民会館
(左) 放射状に並ぶ門型トラスがコンクリート基壇の一点に集まっています
(右) 外部階段の手摺も放射状モチーフでデザイン。階段裏のコンクリート打放し木目の本実が渋い。壁のコンクリート打放しも変わった割りつけで、目地は出目地のような感じ・・ こういう細かいところが内井さん的 ?

都城市には新しい文化ホールが近年出来て・・古い市民会館は解体の危機もありましたが、保存運動の末、大学施設として存続が決まったそうです。昨年末に83歳で亡くなられた設計者の菊竹清訓さんも喜んでおられたのでしょうか・・

〈追記〉2019年解体

「建築探訪 46」-Tokyo/世田谷

世田谷区民会館/公会堂

前川國男による「世田谷区民会館/公会堂」(1959)を探訪して来ました。
(上写真) 中庭より公会堂を見る。屏風のように折れ曲がったコンクリート打放し壁(折版構造)は、50年以上経過し・・ 古代遺跡の様な迫力があります (頂部庇の出が大きくやや建物をクラシックに感じさせている事と、大きく成長した木々の存在感が効いているのかな)。住宅地に囲われた小都市の広場として、居心地の良い空間でした。

世田谷区民会館/公会堂

同じ様な折版構造の公会堂といえば・・丹下健三の「今治市庁舎/公会堂」(1958) がとても似てますが・・ 竣工年だけ見ると、弟子である丹下さんの方が1年早い。 折版構造つながりでは、有名な群馬音楽センター(前川の日本の師であるA.レーモンド) が1961年・・ 弟子から師まで順番に作ってる・・みんなこの頃に集中してる。この頃の建築家にとって “折版構造” がいかに魅力的な建築手法であったか・・ という事なのかな。

(上写真右) 区役所へとつながる連結部。1階ピロティ部は道路側への通り抜けスペース。人を誘い込む様な計画手法や、ブリッジによる建物間の連結などは・・ いかにも前川さんらしい。

世田谷区民会館/公会堂
(左) 道路側より見る区民会館。ちょうど昼休みの時間、木陰の下ではお弁当を食べる職員さんが何人か
(右) 中庭より見る公会堂と区民会館の連結部

コンクリート打放しの公共建築は、ノンメンテナンスで状態がかなり悪い場合が多くあり、汚れ痛みが目立つのですが ・・「世田谷区民会館/公会堂」では、大きく成長した木々の存在が、その印象をかなりカバーしている様に思えました。

世田谷区民会館/公会堂
建物全体を廻っている手摺の存在がGOOD

中庭からテラスへの繋がりや、建物の回遊性を促すデザイン要素として・・ 広場を中心とした都市的空間の演出に効果大でした。翌年の「京都会館」にもつながるデザイン要素かな・・ そういえば前川さんの傑作である「神奈川県立図書館・音楽堂」(1954) も手摺が効いていたし、全体の雰囲気もやはり似ている・・ 前川さんの “打放し時代” の建築では、手摺の存在感や、ブリッジによる分棟の連結がわりとポイントになっています。

「建物探訪 39」 -Hiroshima/三原

三原市芸術文化センター

「三原市芸術文化センター」(’07)  設計:槇文彦(1928-)
(上写真)東側芝生広場より見る。押し潰した半球型のホール屋根が特徴的な外観、鏡餅みたいです。建物中央部に1200席の多目的ホール、その背後にフライタワー、芝生広場に面したガラスBOX部がホワイエ、左側2層BOX部が事務室/楽屋/練習室等・・外観とプランが合致した明解な構成。

三原市芸術文化センター
(左) ホワイエの中庭を見る。ホワイエには大きな中庭が設けられています。左上部にはホール屋根が見えます
(右)中庭よりホワイエ、その向こうには芝生広場が見る

外部と連続したとても開放的な構成は、このホワイエがコンサート等が催されている意外の時にも、色々な市民活動に利用される場所として考えられているからだと思います。この日は平日で何の催しもない時でしたが、ホワイエは開放されていて出入りは自由、とても暑い日でしたが・・空調も効いていたのでひと休憩。

三原市芸術文化センター
芝生広場と連続した開放的なホワイエ

「独りのためのパブリックスペース」とはこの建物を設計した時の槇さんの論文題・・ 美術館で誰にも邪魔されず好きな作品と静かに対面できるように・・都市で独り佇む事ができる余裕と優しさのあるパブリックスペースが、日本の都市には少ないと嘆かれる槇さん・・訪れたこの日、広いホワイエでは男性が独りで本をずっと読んでいました。

「建築探訪 23」 -Ehime

今治市庁舎/公会堂/市民会館

愛媛県今治市にある 「今治市庁舎/公会堂」(’58) & 「今治市民会館」(’64) を訪ねました・・・設計は丹下健三。・・3棟の配置/ヴォリュームがつくり出す調和、各棟に変化をつけたデザイン要素のおもしろさ・・あまり期待せずに訪ねましたが、さすが 「世界の丹下健三」・・出来てから50年経っているのですが、”懐かしい近代建築らしい近代建築”・・・清々しい建築でした。
(上写真) 左から公会堂/市民会館/市庁舎

今治市公会堂
公会堂を見る

広島ピースセンター(’52,’55)」 「旧東京都庁舎(’57)」 「香川県庁舎(’58)」とコンクリート建築の柱梁による日本的表現で名建築を生み出してきた40代の丹下さん。1958年の折版構造によるこの建築は、「オリンピックプール(’64)」 「東京カテドラル(’64)」 「香川県立体育館(’64)」 「山梨文化会館(’67)」 等の・・50代の構造表現色の強い丹下さんの新しい展開への繋がりに位置する作品・・ 

今治市民会館
市民会館を見る

コンクリート打放しの大きな屋根庇や、縦リブ&サッシのリズミカルな壁面開口部の割付けによる表現が・・・「ロンシャンの礼拝堂(’55)」 「ラ・トゥーレット修道院(’60)」や一連のインドでの作品など・・コルビュジェ建築の強い影響を感じさせます。

今治市民会館
市民会館の詳細・・内部からみたコルビュジェ的サッシ割りが、綺麗
今治市民会館
市民会館の詳細・・庇部、バルコニー部、壁面など細かなところまでデザインされてます
今治市庁舎
市庁舎を見る

竣工時のコンクリート打放しの姿 (現在は市民会館以外は”吹付け仕上げ”に改修されています・・) を作品集で見ていると・・素材とヴォリュームが産み出す緊張感のある静謐な姿がとても美しい。・・丹下健三45才の作品 (当時の担当スタッフは磯崎新との事) 。・・やはり1950年から70年までの丹下作品は、抜群に造形感覚が敏感で秀逸・・カッコイイ

「建築探訪 10」 -Okayama 2

天神山文化プラザ

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件あります。上は「岡山県総合文化センター(現 天神山文化プラザ)」(1962) 。高台に建つT字型プランのコンクリート打放しによる力強い外観を持つ複合文化施設・・前川の師匠であるル・コルビュジェを思わせる コンクリート打放し色の強い 建築。(上写真) T字の縦棒の一番底にあたる・・西側立面を道路から見る。天井ダウンライトの配置が、米粒をばらまいた様な規則性のない配置で goodです。

天神山文化プラザ

崖に囲まれ、高低差もある難しい敷地条件に・・同じような大きさの2つの直方体ヴォボリュームをT字に直交させたシンプルな配置で応答し、かつ直方体間の高さにずれをつくる事で魅力的なピロティ空間を・・建物のアプローチとなる西側道路面に作り出しています。(上写真 左) 西側立面を見上げる。右手に高い擁壁が・・建物南側はこんなにも敷地レベルが高くなっています。(上写真 右) 駐車場から南側立面を見る・・ここにもコルビュジェが得意としたデザイン手法・・「コンクリートによる日除けルーバー」が用いられています。 

「建築探訪 06」 -Kanagawa

神奈川県立図書館・音楽堂

神奈川県立図書館・音楽堂(’54) 設計: 前川國男へ行ってきました。
(上写真) 音楽堂を正面から見る。日本近代建築の名作。

前川國男(1905-86) は近代建築の巨匠ル・コルビュジェに学んだ日本人最初の弟子。1928年、コルビュジェにとって「白の時代」と言われるシンプル/ホワイト/キューブの住宅ばかりを設計していた時代が終わろうとしていた頃・・乾式工法住宅や土着的要素を取入れた住宅へとコルビュジェの作風が移っていった頃・・前川國男は卒業式後すぐに旅立ち、シベリア鉄道に乗り・・ パリのコルビュジェのもとへ。1930年に帰国。

帰国後に前川が完成させた処女作「木村産業研究所(1932) 」はまさに “コルビュジェ風”でした。・・ 帰国後も、戦中は仕事もなく・・実現されそうにもないコンペに、”新しすぎて”当選しそうにもない”コルビュジェ風の近代建築”を提案し続けたり。戦後も・・ 資材統制により木造の小規模建物しかできない状況で”木造モダニズム建築”を模索したり。苦しい時期が長く続きました。

神奈川県立図書館・音楽堂
正面が図書館。右側が音楽堂

コルビュジェに学んだ「近代建築」を力の限りに、やっと実現できたのが・・この「神奈川県立図書館・音楽堂」。前川が得意とする「卍型の一辺で配置した非対称型プラン」・・内外へ流動するような、透明感あふれる端正な空間 ・・前川にとっても珠玉の作品。清楚に咲いた日本近代建築の清純な花といった感じ。

神奈川県立図書館・音楽堂
音楽堂のホールを見る。床のテラゾーが素敵です。
神奈川県立図書館・音楽堂
図書館の入口を見る

この後には、1960年の「京都会館」、1961年の「東京文化会館」 などで、続けて建築学会賞を取るなど・・大活躍の前川國男。

しかし、少しずつ人間性を失っていった近代建築に限界と矛盾、絶望と無力感を抱きはじめていた。・・前川の作風に「庇」や「勾配屋根」や「タイル」など、近代建築の言語ではない要素が少しづつ取り入れられ。・・「希望に満ちた近代建築」の理想主義的な拘束から逃れ、地域性に考慮された現実的な「日本においての近代建築」を実現させようと大きく作風は変化していきました。

70年代の「埼玉県立博物館」や「熊本県立美術館」や「福岡市美術館」こそ、熟練の域に達した前川建築の神髄ではないでしょうか。・・前川さんの建築は、同時代の流行に敏感だった弟子でもある丹下健三(1913-05)の派手さと比べると・・地味でその良さを言葉で説明するのも難しく。私も学生の頃は興味もなく・・良さも分からなかったのですが、仕事を始めてからだんだんと興味が沸いてきたという感じです。

「建築探訪 04」-Hiroshima/呉

呉市庁舎/市民会館

週末、「呉市庁舎/市民会館 (’62)」を探訪・・ 設計は坂倉準三建築研究所。
濃青色タイル張りの二つの円筒形 ( ひとつは空に向かって螺旋状曲面を延ばす市民会館ホール。もうひとつは議会場。 ) と 水平要素(ブリッジ や 議会場の大きな庇 )の対比が美しかったです・・さすがの “コルビュジエ的な感じ” 。

呉市庁舎/市民会館
螺旋状曲面を空へと延ばす市民会館ホールを見る。
今は白く見える部分は、もともとは “コンクリート打放し” の様でした・・ある時ペンキで白く塗られました・・”濃青色タイル円筒形”と”打放し”の対比はすごく綺麗だったろうな・・
呉市庁舎/市民会館
大きな庇が効いている議会場を道路より見る

建物は全体的に傷み汚れが目立ち、あまりメンテされてない様な感じ。50~60年代の有名作品には “打放し建築” が多い。完成時の写真のイメージを頭に入れ見学に行くと・・”打放し建築” のひどい汚れ様/傷み様/ペンキ塗りされた様にガッカリする事は何度もあり・・プランや形が変わったわけではなく、ペンキを塗られただけなんだけれども、建物の印象としては・・全く違うものにすら見えてしまう・・ 色と素材と形 のバランスは非常に緊密なのだから・・ こんな時には竣工時の姿を当時の資料などから想像してみます・・

〈追記〉2017年解体