「建築探訪 23」 -Ehime

今治市庁舎/公会堂/市民会館

愛媛県今治市にある 「今治市庁舎/公会堂」(’58) & 「今治市民会館」(’64) を訪ねました・・・設計は丹下健三。・・3棟の配置/ヴォリュームがつくり出す調和、各棟に変化をつけたデザイン要素のおもしろさ・・あまり期待せずに訪ねましたが、さすが 「世界の丹下健三」・・出来てから50年経っているのですが、”懐かしい近代建築らしい近代建築”・・・清々しい建築でした。
(上写真) 左から公会堂/市民会館/市庁舎

今治市公会堂
公会堂を見る

広島ピースセンター(’52,’55)」 「旧東京都庁舎(’57)」 「香川県庁舎(’58)」とコンクリート建築の柱梁による日本的表現で名建築を生み出してきた40代の丹下さん。1958年の折版構造によるこの建築は、「オリンピックプール(’64)」 「東京カテドラル(’64)」 「香川県立体育館(’64)」 「山梨文化会館(’67)」 等の・・50代の構造表現色の強い丹下さんの新しい展開への繋がりに位置する作品・・ 

今治市民会館
市民会館を見る

コンクリート打放しの大きな屋根庇や、縦リブ&サッシのリズミカルな壁面開口部の割付けによる表現が・・・「ロンシャンの礼拝堂(’55)」 「ラ・トゥーレット修道院(’60)」や一連のインドでの作品など・・コルビュジェ建築の強い影響を感じさせます。

今治市民会館
市民会館の詳細・・内部からみたコルビュジェ的サッシ割りが、綺麗
今治市民会館
市民会館の詳細・・庇部、バルコニー部、壁面など細かなところまでデザインされてます
今治市庁舎
市庁舎を見る

竣工時のコンクリート打放しの姿 (現在は市民会館以外は”吹付け仕上げ”に改修されています・・) を作品集で見ていると・・素材とヴォリュームが産み出す緊張感のある静謐な姿がとても美しい。・・丹下健三45才の作品 (当時の担当スタッフは磯崎新との事) 。・・やはり1950年から70年までの丹下作品は、抜群に造形感覚が敏感で秀逸・・カッコイイ

「打放しに戻ってる!!」

倉敷国際ホテル

ここのところずっと外壁の改修工事の為に建物全体を足場で囲われていた・・
建築学会賞も受賞した浦辺鎮太郎により設計された「倉敷国際ホテル」(’63)・・・今日、事務所を出て倉敷駅へ向かう途中、見上げると足場が外されており、改修後の外観を見てビックリ・・・ 「打放しに戻ってる!!」

(上写真左) 改修前の外観。この建物のデザインの大きな特徴であった四層に重なる独特の”浦辺庇(勝手にネーミング)”がもともとコンクリート打放しだったものが、ずっと長い間 白く塗られた状態でした・・どこのコンクリート打放し建築にもありがちな様に「黒く汚れてきたからペンキ塗り」・・・

(上写真右) それが元のデザインを尊重した “打放し”に戻っていました・・・外観/インテリア/細部まで骨太な民芸的な雰囲気を漂わせながらも質の高いデザインと細やかな配慮により現代建築として昇華された作品・・・隣接する「大原美術館分館」(’61)ともに浦辺建築ベスト3(自分の勝手なベスト3です)に入る建築がもとのデザインに”近づいた”のは嬉しい限りです・・・

ホテル建築につきものの 華美さ/きらびやかさ/過剰さがない・・質素/健全/実質的という言葉が相応しい「倉敷国際ホテル」は・・古い街並みと共に “倉敷”という町にとても調和した “倉敷”という町の顔となる・・・建築ではないでしょうか・・

「建築探訪 17」 -Osaka/中之島3

朝日ビル

(上写真右) 「朝日ビル」 (’31) 設計:竹中工務店 。四ツ橋筋の角地に建つ10階建てのオフィスビル、伸びやかな円弧を描くバルコニーの水平線&アール壁を強調したデザインは、御堂筋の角地に建つ素敵な素敵な美しい「大阪ガスビル」(’33)と共に昭和初期を代表する名オフィスビルですが・・・「朝日ビル」は2010年代には取り壊して超高層ビルに建替える計画だそうだ・・・戦争も乗り越えて、76才まで頑張ってきたのに・・・(上写真左・中)は1968年に西側/南側に増築された部分。

新朝日ビル

前記の「朝日ビル」の東向かい、四ツ橋筋を挟んで建つ 「新朝日ビル」 (’58) 設計:竹中工務店 。カラヤンもその音響の良さを誉めたという「フェスティバルホール」の入る建物として有名。上部の立体的なアルミプレスパネルがとてもカワイイ、建物下部は表情を変えて縦割りのアルミパネルとしているが、その”ペコペコ感”&”質感”がまたイイ、庇裏のアルミ張り&時々張っているクリーム色タイルとの組合わせがまたgood・・・何とも愛らしくて好きなビルだったんですが来年中には取り壊して2013年には超高層ビルに建替計画・・・

ダイビル

「ダイビル」 (’25)  設計:渡辺節(1884-67) 。堂島川に面して建つ8階建の大正期の賃貸オフィスビル、遠目から見るとアッサリした印象だが 外部1階やエントランスホールには濃密な装飾が施され、特に内部エントランスホールを贅沢豊穣な空間としてつくり上げるエネルギーの掛け方/仕上がりは、その後1931年に竣工した渡辺節の最高傑作と言っていい「綿業会館」に続く・・質の高い建築だが、「ダイビル」も取り壊して超高層ビルに建替る計画だ・・

中之島周辺は地下鉄新駅が出来る事もあり再開発ブームのようだ・・・「新ダイビル」 「朝日ビル」 「新朝日ビル」 「ダイビル」 等・・・中之島にある近代建築が次々と消え・・・”普通”なビルに替わっていく・・

中之島以外でも「大阪中央郵便局(’39)」 や 「大阪新歌舞伎座(’58)」 の取り壊し建替計画も伝えられ・・・近代建築だけではなく日本におけるポストモダニズム建築を代表する象徴的作品 「キリンプラザ大阪(’87)」 も出来てからわずか20年なのに・・・早くも取り壊して、建替られるそうだ・・
古いものが新しいものに替わっていくのは自然な事だから・・・「形態は機能に従う」と宣言した近代建築が、現代においてその「機能性/経済性」が時代遅れとなった時、あまりセンチメンタルな視点からだけで”取り壊し反対”を声高に叫ぶ必要はないとは思いますが、時代を代表するような希有な建築くらいは残していく努力をしなければいけないと思います・・・センチメンタルなものを伝えていく/大事にしていく事も建築/都市の重要な役割だから。

「建築探訪 16」 -Osaka/中之島 2

村野藤吾設計の新ダイビル

「新ダイビル」(’58) 設計:村野藤吾(1891-1984)。9階建てのオフィスビル、四角い箱に連続横長窓・・教科書通りの近代建築デザイン手法の範疇にありながら、村野さんのオフィスビルはどこか”艶っぽい”・・・窓と壁の比率/窓割りのプロポーション/窓と壁の納まり/タイルの質感/建物コーナーの納め方/4階部窓だけはわずかに後退させ建物角を欠いて・・本当に細かい事の積み重ねなんだけれども、それを全体に現れる”艶っぽさ”にまで昇華させるデザイナーとしての力量が素晴らしいと思います・・・

村野藤吾設計の新ダイビル
村野さんの建築はディテールがgoodです・・
エントランス廻りのステンレスサッシュを見る。竪枠にはアールを付けて壁となじませる細かなデザイン・・
村野藤吾設計の新ダイビル
階段室の階段端部を見る。端部のみ階段厚さを絞っているので、階段が薄くシャープに見えます・・
村野藤吾設計の新ダイビル
(左) エレベーターホール上部壁の上下階表示灯を見る
(右) 階段を見る。黒御影石張りの存在感のある腰壁・・
村野藤吾設計の新ダイビル

「新ダイビル」は 2011年に取り壊し予定・・ 超高層ビルに建替える計画。
比較的歴史の浅い「近代建築」に対する”一般”の評価は低い・・”素晴らしさ”は伝わらないのだろうか・・最近では屋上緑化は珍しくないですが、「新ダイビル」 には1958年の建築とは思えない様な立派な屋上庭園があります、壊される前にまた行ってみよう・・「新ダイビル」の4階外壁角にはどうして羊が居るのだろう?

「建築探訪 12」 -Shimane

出雲大社庁の舎

島根に近代建築を見に行こうと思った時、まず頭に浮かぶのが・・菊竹清訓(1928- )の設計による「出雲大社庁の舎(’63)」・・ 建物外観は、刈り取った稲を架ける 「ばでば」 からの引用・・ 頂部には50mにもおよぶPC(プレストレスコンクリ-ト)大梁を2本載せ・・用途は社務所及び宝物殿。 

出雲大社庁の舎

この様な特異な外観をしたコンクリ-トの建物を、伝統格式のある建築が配置された出雲大社の境内によく造ったなぁ・・どんな感じで調和or対峙しているんだろうなぁ・・と写真で見る度に何度も思っていました・

出雲大社庁の舎
(左) 妻面にはPCパネルを張った 構造的/構成的な独特のデザイン
(右) ファサ-ドの大部分を覆うPC製ル-バ-
出雲大社庁の舎

菊竹清訓はメタボリズム・グル-プの主要メンバ-として、60年代に高い理想と過激な作品で、来るべき社会における新しい建築の在り様を提示しようと大活躍・・日本近代建築の名住宅として名高い「スカイハウス(’58)」で見せた明快で強烈な思想&表現はそれに相応しいものだった様に思えます・・近代建築のスタティックな機能主義ではなく、ダイナミックに生物のように新陳代謝する夢の都市は・・技術的に進歩するであろう将来において、これから開花する可能性もあるかもしれない・・時代を先取りしたメタボリスト/菊竹清訓の代表作。

かねや

帰りには出雲大社のすぐ近くにある「かねや」で “出雲そば” を頂いて帰りました・・おいしかったです

「建築探訪 11」 -Okayama 3

林原美術館

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件・・ (上写真) は「岡山美術館(現 林原美術館)」(’63)。中庭を囲んだ回遊性のあるロの字型プランの小規模な美術館・・後期 前川建築を象徴する手法「打込みタイル」に至る前・・「レンガ積み外壁」が印象的な建築。

近代建築を代表する外装手法を自らの失敗の中から見直し・・前川が辿り着いたのが「打込みタイル」でした。耐久性という・・合理的側面からの試行錯誤から辿り着いた素材が、ガラス/金属/コンクリートという近代建築を象徴する工業的素材ではなく、大昔からある”焼き物”という材料だったのです。

林原美術館
前川は最初この美術館の外壁を”備前焼”で考えていたそうだが・・このボロボロの煉瓦は、四国の観音寺というところの窯にあった・・多少ねじれた様なクズを集めさせた物との事・・

「打込みタイル」という手法の発見だけでなく、前川らしい空間/建築が生まれたのも、後期70年以降の「埼玉県立博物館」(’71)や「熊本県立美術館」(’77)や「福岡市美術館」(’79)といった60才を過ぎてからの作品群ではないでしょうか。前川の師匠であるコルビュジェが「ロンシャンの教会」を完成させたのが68才、「ラ・トゥーレット修道院」が73才。建築家は60才を過ぎて頃から やっと自分らしさを建築で表現できるくらいになるのだろうか・・

「建築探訪 10」 -Okayama 2

天神山文化プラザ

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件あります。上は「岡山県総合文化センター(現 天神山文化プラザ)」(1962) 。高台に建つT字型プランのコンクリート打放しによる力強い外観を持つ複合文化施設・・前川の師匠であるル・コルビュジェを思わせる コンクリート打放し色の強い 建築。(上写真) T字の縦棒の一番底にあたる・・西側立面を道路から見る。天井ダウンライトの配置が、米粒をばらまいた様な規則性のない配置で goodです。

天神山文化プラザ

崖に囲まれ、高低差もある難しい敷地条件に・・同じような大きさの2つの直方体ヴォボリュームをT字に直交させたシンプルな配置で応答し、かつ直方体間の高さにずれをつくる事で魅力的なピロティ空間を・・建物のアプローチとなる西側道路面に作り出しています。(上写真 左) 西側立面を見上げる。右手に高い擁壁が・・建物南側はこんなにも敷地レベルが高くなっています。(上写真 右) 駐車場から南側立面を見る・・ここにもコルビュジェが得意としたデザイン手法・・「コンクリートによる日除けルーバー」が用いられています。 

「建築探訪 09」-Okayama

岡山市内には日本近代建築の巨匠-前川國男(1905-86)設計の現存する建築が3件あります。最も古いものが「岡山県庁舎」(’57) 上2点。
戦後すぐ資材難の時期ゆえの木造建築を多く手掛けた後、1952年に当時最新だったアルミサッシやPCパネルといった工業化素材を用い、最小の構造体で最大限の空間を得ようとする、前川の近代合理建築の出発点と言ってもいい、戦後の先駆的なオフィスビル「日本相互銀行」(’52)から続く金属カーテンウォールシリーズ・・27000平米を超える「岡山県庁舎」は前川にとっても当時初めてとなる大規模な建物、開放的で流動的な玄関のコンクリート柱で持ち上げられたピロティはその後の「京都会館」(’60)を思わせる構成だが、建築の印象としては「岡山県庁舎」は “明るい戦後民主主義” “明るい近代合理主義” “明るい工業化社会” を信じ目指した最後の時期。その後の「京都会館」や「東京文化会館」(’61)といった作品には、 もはや”明るい”ままでいる事が出来ないとでもいった 「近代への葛藤」が感じ始められます。県庁は50周年だ・・

「建築探訪 07」 -Kanagawa 2

神奈川県立近代美術館

「神奈川県立近代美術館」(’51) へ行って来ました・・戦後まだ間もない、占領下という状態の中で建てられた、日本で最初の公立近代美術館。(上写真) 北西を向いた建物正面を見る。鉄骨造の軽快さが建物外観にも現れている。建物高さは10m。建物を押さえる様にグルリと廻した、鼻隠しの波型アルミ板が効いてます。

神奈川県立近代美術館

設計者である坂倉準三(1904-69)といえば、近代建築の巨匠 ル・コルビュジェ のもとで学んだ、3人の代表的な日本人弟子 (前川國男、坂倉準三、吉坂隆正) のうちの一人。(上写真) 上部外壁はアスベストボード(1200×1800) を、巾50mmのアルミ目地金物で押さえている。下部外壁は大谷石積み。

神奈川県立近代美術館

坂倉準三は若干33才にして、戦前の設計コンペで勝ち勝ちとった「パリ万博 日本館」(’37) の成功で、若くして一躍注目の建築家となり・・ 戦後のこの「神奈川県立近代美術館」の指名設計コンペでは、前川國男を含む他の4案を抑えて見事当選。(上写真) 建物中央に設けられた吹抜けの中庭を見る。

神奈川県立近代美術館
池に面したテラスを見る。2階床は池まで大きく張り出し、それを支えている柱は池中の石上にその脚を下ろしている。(柱は池の下まで伸びて、池中繋梁で柱同士及び建物本体としっかり連結されている)
神奈川県立近代美術館
左側の池に面したテラスと、右側の中庭に挟まれた彫刻室を見る

「神奈川県立近代美術館」と「パリ万博 日本館」には共通するデザイン要素も多く・・ “露出した細い鉄骨柱”  “持ち上げられた直方体”   “流動する空間”  “建築的プロムナード” といった手法は、共通した設計言語として両建物に現れている・・ 建物中心の吹抜/中庭から、池に面したピロティ下のテラスへの繋がりは、ダイナミックでありながら繊細でもある、魅力的な空間となっていました。

「建築探訪 06」 -Kanagawa

神奈川県立図書館・音楽堂

神奈川県立図書館・音楽堂(’54) 設計: 前川國男へ行ってきました。
(上写真) 音楽堂を正面から見る。日本近代建築の名作。

前川國男(1905-86) は近代建築の巨匠ル・コルビュジェに学んだ日本人最初の弟子。1928年、コルビュジェにとって「白の時代」と言われるシンプル/ホワイト/キューブの住宅ばかりを設計していた時代が終わろうとしていた頃・・乾式工法住宅や土着的要素を取入れた住宅へとコルビュジェの作風が移っていった頃・・前川國男は卒業式後すぐに旅立ち、シベリア鉄道に乗り・・ パリのコルビュジェのもとへ。1930年に帰国。

帰国後に前川が完成させた処女作「木村産業研究所(1932) 」はまさに “コルビュジェ風”でした。・・ 帰国後も、戦中は仕事もなく・・実現されそうにもないコンペに、”新しすぎて”当選しそうにもない”コルビュジェ風の近代建築”を提案し続けたり。戦後も・・ 資材統制により木造の小規模建物しかできない状況で”木造モダニズム建築”を模索したり。苦しい時期が長く続きました。

神奈川県立図書館・音楽堂
正面が図書館。右側が音楽堂

コルビュジェに学んだ「近代建築」を力の限りに、やっと実現できたのが・・この「神奈川県立図書館・音楽堂」。前川が得意とする「卍型の一辺で配置した非対称型プラン」・・内外へ流動するような、透明感あふれる端正な空間 ・・前川にとっても珠玉の作品。清楚に咲いた日本近代建築の清純な花といった感じ。

神奈川県立図書館・音楽堂
音楽堂のホールを見る。床のテラゾーが素敵です。
神奈川県立図書館・音楽堂
図書館の入口を見る

この後には、1960年の「京都会館」、1961年の「東京文化会館」 などで、続けて建築学会賞を取るなど・・大活躍の前川國男。

しかし、少しずつ人間性を失っていった近代建築に限界と矛盾、絶望と無力感を抱きはじめていた。・・前川の作風に「庇」や「勾配屋根」や「タイル」など、近代建築の言語ではない要素が少しづつ取り入れられ。・・「希望に満ちた近代建築」の理想主義的な拘束から逃れ、地域性に考慮された現実的な「日本においての近代建築」を実現させようと大きく作風は変化していきました。

70年代の「埼玉県立博物館」や「熊本県立美術館」や「福岡市美術館」こそ、熟練の域に達した前川建築の神髄ではないでしょうか。・・前川さんの建築は、同時代の流行に敏感だった弟子でもある丹下健三(1913-05)の派手さと比べると・・地味でその良さを言葉で説明するのも難しく。私も学生の頃は興味もなく・・良さも分からなかったのですが、仕事を始めてからだんだんと興味が沸いてきたという感じです。