「建築探訪 136」-Nara 2/ 慈光院

慈光院高林庵

「慈光院 高林庵」(奈良県大和郡山市)を探訪・・内外部が一体となった、見事な書院造の空間。小堀遠州の亡きあと、将軍家の茶道指南も務めた、石州流の元祖 片桐石州が・・両親の菩提を弔うために1663年に建てた寺院が慈光院。書院へ増築された二畳台目の茶室が高林庵
(上写真)さつきの刈込み・・大きい!!

慈光院高林庵

日本を代表する建築家の一人、篠原一男は・・「数学を志していた自分が、奈良京都で日本建築の美しさに接した事で・・建築家になる決意を決めた」と、初期の著書「住宅建築(’64)」に書かれていました・・・その幾つかの建築の中に、この「慈光院」もありました。
(上写真)13帖敷きの書院主室を見る。正面に南向きの1間の床、その横に1間の出書院、柱は4寸角大面取り、長押は無し・・格式張らない・・さり気ない佇まいの書院。

慈光院高林庵

訪れた日はとても暑い1日でしたが、とても心地の良い空間でした。この様な外部(自然)と内部(人間)が一体となる日本建築の在り方は・・(強固な石壁で外部から内部を隔絶しようとする、西洋建築の考え方とは大きく異なる)・・日本文化の根幹的思想をよく表わした構成。
(上写真)大和盆地を借景とした東庭を見る。東から南へと廻る鍵の手型の広縁。軒先と縁先が作り出すフレーミングの効果で・・庭の美しさが更に際立ちます。

慈光院高林庵

「襖や建具を全て開け放した一室空間が・・広縁へと繋がった空間構成は、日本建築の住空間の美しさの典型のようだ。(by西澤文隆) 」・・
(上写真)東庭より見る。建築も庭も、とても控え目な作りは、石州流の茶の精神そのまま・・なんでしょうか。

慈光院高林庵

客をもてなす為の、床の間(上写真のいちばん左)が客座(上写真の右手)ではなく点前座(中柱のすぐ左)にある「亭主床」のつくり。径が50mmほどの中柱は櫟(クヌギ)皮付、天井直前での屈曲が絶妙!!!  壁止めである節3つの横竹がgoodです。天井は杉杢、黒竹の棹縁は床差し。

西澤文隆さんによると、茶室建築の別格は密庵(伝小堀遠州)、待庵(千利休)、如庵(織田有楽)・・その国宝三席の次に来るのが、西翁院(藤村庸軒)と高林庵(片桐石州)との事・・

慈光院高林庵

慈光院の書院と茶室は、石州の作風に触れる事の出来る唯一の遺構・・一見目に留まる様な目立つ意匠もなく、平凡そのものとも取れる石州の作風ですが・・”作為を一切消した、わざとらしさを表わさない表現” には・・現代デザインの流れと共感できる部分も多いのでは。
(上写真右)出書院東南にある手水鉢「角ばらず」・・goodです。
(上写真左)客座の2帖部を見る。外壁2面の巾一杯、開放的で伸びやかに・・高さをずらして連続する横長連子窓。

屋根

(左上)伊勢神宮外宮/古殿側からみる四重の塀の向こうに茅葺きの屋根
(右上)桂離宮/中書院-楽器の間-新御殿と雁行する柿(こけら)葺きの屋根
(左下)元興寺/飛鳥時代のとても古い瓦も使用されている屋根
(右下)大宮御所 御常御殿/大きく、反りが美しい寝殿造りの屋根

“屋根という建築的要素”は近代建築が始まるまで、古代寺院建築(or先史竪穴住居)から非常に長い期間・・1000年以上という単位で大きくは変化のなかった普遍的と言ってもいい要素のひとつでした・・
近代建築技術の進歩によって初めて”屋根がない”建築が現れ・・それは長い建築史から見ればここ最近20世紀以降の事・・・近代以降、大きな/公共的な建物は鉄筋コンクリート造/鉄骨造でつくられ”屋根がない”ことが当たり前なのですが、昔は逆に建物が大きな/公共的な建物であればある程”屋根が大きい”という事が重要でした・・・
雨が多く湿度の高い日本のような地域では”屋根が大きく&軒が深く”ある事は快適な居住環境を得るためには合理的/機能的な選択です・・・しかしそれだけが理由ならば、「そんなにも大きくなくてもいいだろう」と言うくらい日本建築の屋根は大きく・・・合理/機能だけではなく、そこには象徴的存在としての”大きな屋根”への言葉には成し難い様な「憧憬」のようなものがDNAに刻まれているのではないでしょうか・・・

「建築探訪 08」-Nara/室生寺

室生寺

大阪市内から近鉄電車に揺られ1時間、バスに乗って数十分・・奈良山中に佇む、8世紀末に興福寺の末寺として創建された「室生寺」。(上写真右) “懸造” ・・脚が伸びている部分の姿が印象的・・ 中世のリフォ-ム。
小学生の頃、遠足でここを訪れた時の印象は大人になっても忘れる事はなかった・・強く印象に残ったその理由が何だったのかと考えてみると・・それは建物そのものではなく、建物同士の配置に理由があったのではないかと・・ 
古都奈良を代表する法隆寺・薬師寺・唐招提寺・・等の多くの寺院が平坦な場所を塀できっちり四角に囲い、その中に塔・金堂・講堂を配置(これを「伽藍」と言います。)する方法が非常に大陸的/中国的な影響が強い事に比べ、室生寺の伽藍は山の高低差をそのまま利用し、地形に溶け込む様に配置されています。6世紀に「輸入」された仏教寺院建築が日本の風土/感性に適応したものへと変わり始めたと言っていいのでしょうか・・

室生寺

木漏れ日が時より差し込む 深い樹々の中、何段もの階段を頂上である 「奥の院」 まで 歩を進める毎に、自然/地形に隠れていた金堂や講堂や塔が少しづつ “現れては消えていく” その行程・・ “奥へ奥へと 続いて行く” その空間意識 ・・ その様な感覚が、忘れ難いものとして子供心にも響きました・・