「建築探訪177」-Gunma 6

アントニン・レーモンドの設計図をもとに・・1952年に建てられた「井上房一郎邸」を探訪。ナチスの迫害から逃れ3年半もの間、日本に滞在していた・・ドイツ人建築家ブルーノ・タウトのパトロンとしても知られる・・井上房一郎氏の自邸。(北側の外観を見る。敷石の先にエントランス、左手に見えるリビングの高窓がチャームポイント・・)

(南側の外観を見る。) 石張りのパティオの向こうにリビング・・東京の麻布に1951年に建てられた「レーモンド自邸兼事務所」を見た井上房一郎氏が、その建物を大層気に入り・・建築家の承諾を得て、図面を提供してもらい、1952年群馬県の高崎市に・・建物を完全再現 !!!!

(パティオから南側の日本庭園を見る。) その後、オリジナルである「レーモンド自邸兼事務所は取り壊されたので・・もはや、こちらこそがレーモンド建築の真髄を伝える貴重な存在となっています。

(リビングを見る。) 「丸柱を挟んだ、2つ割りの丸太方杖」が梁を支える・・レーモンド建築を特徴づける・・アイコニックな構造的表現手法。

(リビングより南側の日本庭園を見る。) アントニン・レーモンドはチェコ生まれの建築家。フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルを手掛けた際に、ライトの弟子として来日・・

(パティオに面した寝室を見る。) 帝国ホテルの仕事が終わった後も、レーモンドは日本に留まり・・群馬音楽センターや東京女子大学、リーダーズダイジェスト東京支社やノートルダム清心女子大学・・・などなど数多くの建築を日本に残しました。

(寝室の南側、レーモンドのデザインによる”造付け家具”を見る。) 第二次大戦中はアメリカへ帰国したものの、1947年には再来日。戦後も多くの優れた建築を日本に残し・・1973年85才の時に建築家を引退し、アメリカへ帰国。その3年後ペンシルベニアにて88才で亡くなられました。

「建築探訪175」-Gunma 4

1961年に建てられた、チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド設計の「群馬音楽センター」を探訪。折版構造による約60mもある大きなスパンを活かした、五角形デザインの北面ファサードを見る・・しかしながら到着したのは夕刻・・陽が落ちてきました。

翌朝、あらためて探訪・・気持ちの良い晴天。平面的には “扇形”・・切り取られた1枚のピザのような形をしています。(左側に見えているビルは高崎市役所。)
西面から建物の横顔を見ると・・この建物の大きな特徴である “鉄筋コンクリート折版構造” の様子がよく分かる。一辺が4mほどの折版11組による構成・・壁の構成がそのまま屋根の構成へとつながっていきます。(つなぎの梁が構造美的にはない方が明快に見えますが・・)
1階のロビーを見る。2階のホワイエへとつながる大階段のデザインがダイナミック・・ロビーとホワイエを彩る大きく鮮やかな・・壁画のデザインも建築家によるもの・・床の “テラゾー” もいいい感じです。
事前の下調べなしで、突然来たのですが・・運良く使用中のホール内部を見学ができました。外部の構成を活かした内部空間のありようが素敵・・2000人収容の音楽ホール。
コンクリート打放し“と “ベニヤ板” による天井のデザインを見る。コンクリート打放しの部分は折版屋根の下端が室内に顔を見せた状態・・・ベニヤ板の部分は折版屋根の下端と下端の間をふさぐような形・・・その隙間に仕込まれた間接照明が・・稲妻のような感じでホール全体を覆っていてカッコイイ・・音響的にも非常に優れたホール。

ブルーノ・タウトを日本に招聘した事でもよく知られる、地元出身の著名な実業家”井上房一郎”が創設した群馬交響楽団の拠点として、活用されてきた音楽ホールですが・・昨年駅前に”新しいホール“が完成した高崎市・・こちらのホールの使い方が気になるところ。

「建築探訪 165」-Saitama 2

埼玉県立博物館

雨が激しく降る中、前川國男設計の「埼玉県立博物館(1971)」を探訪・・作品集の表紙写真で撮られていたのと同じアングル。スチール手摺の三角が・・goodです。

埼玉県立博物館

ゲートを潜り・・誘われるように広場を抜け・・正面入口付近へ至る。壁床レンガタイルという・・落着きを感じさせるエレメントによる構成・・タイルが張られたマッシブな箱の間に・・生まれてくる空間の流れ・・

埼玉県立博物館

箱のような量塊と・・”一筆書き“と言われる、水平に空間が連続していく・・前川國男の特徴的なプランニング。エントランスロビーから中2階の食堂を見る・・食堂の向こうにはテラスがあり・・内外部が連続して繋がっていく・・左手にはサンクンガーデン的な大きな庭園。

埼玉県立博物館打ち込みタイル

前川建築のアイコニックなエレメントである”打ち込みタイル“を近くで見る。「壁は人間を守るんだという事を、語りかけてくるものでなければならない」by 前川國男。

「建築探訪 163」- Saitama

埼玉会館

雨降るなか・・前川國男の設計による「埼玉会館(1966)を探訪・・浦和駅から歩いて5分程、様々な建物に囲われた繁華な都市的エリアに建っています。大小のホールや集会室事務室などからなる地下3階/地上7階・・この建築の主要なテーマはエスプラナード(東側道路から見る)

埼玉会館

東側道路から階段を上り、エスプラナードと言われる・・建物に囲われた遊歩道的広場に出る・・右手に集会室事務室などが入る高層棟、左手に大ホールの上部ヴォリューム。エスプラナードの床下は大ホールのホワイエ。

埼玉会館

大ホールのエントランスから南側道路へと繋がる、もう1箇所のエスプラナードを見る(ここのエスプラナードの床下は資料室やエントランスロビー)。左手の階段を上がると、先ほどのエスプラナードへと繋がっています・・

埼玉会館

エスプラナードの床下となる・・大ホールのホワイエを見る。建物ヴォリュームの大きな部分を地下に埋め込み・・建物の屋上にエスプラナードを創出・・囲われながらも開かれ、2方向の周辺道路からアクセスが容易な・・「都市の遊歩道広場」を街に・・生み出している建築。

埼玉会館打ち込みタイル

前川建築の代名詞である「打ち込みタイル」。埼玉会館の打ち込みタイルは、横目地が強調される目地形状とアールの大きな役物タイルが特徴的。打ち込みタイルも建設時期や作品の違いによって・・タイルの色艶、細かなディテールなど・・様々です。

埼玉会館

エスプラナードは、都市の遊歩道的広場・・それは単なる通り道ではなく、人々が吹き溜まる、都市の潤いとなる場所・・趣のある打込みタイルの外壁や精緻な床のデザインパターン・・意匠を凝らしたスツールや大階段が・・建築とその外部空間に、色を添えていました。

「建築探訪 162」- Kagawa 6

城の眼

オリンピック選手でもあり、香川県の建築技師でもあり、建築家としても活躍された山本忠司さん・・丹下健三の代表作である香川県庁舎の建設や、アトリエ建設に関わるイサムノグチとの交流などを通じて・・地域にある素材、技術、伝統から多くを学び・・“風土に根ざした独自の建築”を開花させていった・・山本忠司さんは多くの秀作を香川県に残されています。

城の眼ディテール

「城の眼」は、今から57年前、1962年に高松市内に出来た小さな喫茶店・・注目すべきは、ファサードを構成している外装のデザイン!!!・・20枚程度のコンクリートパネルが金物で即物的に留め付けられているのですが・・このパネルのクラフト的な出来栄えが秀逸・・長方形コンクリートパネルに“縦桟で波波模様”をつけたデザインなのですが・・コンクリートを流し込む型枠の木板を、あえて斜めに組む事で出来上がったパネルのマチエールが・・goodです。下記はなるほどな!!!という山本さん自身の言葉です。

「地域文化というものは、できる限り広く求めて、そこにあるものと併せてもう一度グローバルなものに置き換えていく。それはその地域でつくるものであり、地域がつくるものである。そのモメントとなるのはやはり地域愛とそれに伴う情熱のように思われる。」 by 山本忠司

「建築探訪 161」- Tokyo/小金井

前川國男邸

「前川國男邸」を探訪・・戦中の厳しい資材統制のなか1942年に建設。(1973年、手狭となった前川邸はコンクリート造の”新前川邸”に建て替えられるたのだが、その際に移築を前提に解体されていた”旧前川邸が・・)1994年に東京都小金井市にある“江戸東京たてもの園”に都内から移築
(上写真/アプローチとは反対側になる庭側(南側)から外観を見る。)5寸勾配の瓦葺切妻の大屋根にまとめられた潔い姿が印象的・・前川國男の師匠であるル・コルビュジエから学んだ・・白い四角い住宅とは全く異なる意匠・・

前川國男邸アプローチ

(上写真/北側のアプローチより外観を見る。)1938年に布かれた建築統制の30坪で作られている前川邸は・・現在の日本の住宅事情に近く、親近感の持てる大きさ。門扉を抜け、アプローチを真っ直ぐに進む・・

前川國男邸

一度左に向きを変え・・板張りの外壁と前庭を見てから、もう一度右に向きを変えて・・玄関に到達。

前川國男邸

何度も方向を変え、折れ曲がりながら・・外部から居室へと到る一筆書きと言われるアプローチは・・前川國男らしい動線のデザイン。

前川國男邸

高さと広さを抑えた玄関周りの小さなスペースから、回転軸の偏った”葛布貼り”の大きな開き扉(巾1600×高1860)を開くと・・徐々に明るい”大きな”空間が見えてくる・・

前川國男邸内観

静謐な空間・・南庭に面した大きな窓が、まず眼に入ってくる・・上部は透明ガラスの格子戸、下部は障子4枚建て。4.5mの高さがある居間の空間・・・壁天井は漆喰塗り。居心地が良く、いつまでも長居していたい空間。(巾6.3m×奥行5.4mの居間平面は黄金比の大きさ・・巾6.3m×高さ4.5mの大窓のプロポーションは日本人好みの白銀比の大きさ。)

前川國男邸内観

振り返ると・・2階ロフトスペース。ロフトの下、横長な北窓に面して・・落ち着きのああるダイニングスペース、ダイニングテーブルのすぐ右手にはキッチン。

前川國男邸内観

戦後は、空襲で失った銀座事務所に代わり(1954年に現在も使われている四谷の自社ビルが出来るまでの約10年間は)・・この自邸を事務所として使用していたそうだ。

前川國男邸

住宅が建てられた昭和17年頃は、資材統制で思うような材料が手に入らない状況・・南庭、石張りのテラスに立つ立派な丸柱は・・不要になった電信柱を再利用したものと・・言われています。“大きな妻面に丸柱”と言うと・・伊勢神宮の建築の影響をついつい思い起こしてしまいますが・・あながち外れてはいない様です。

「建築探訪 159」- Okayama 6

津山文化センター

雪の降る1月に、岡山県津山市に・・「津山文化センター(1965)」を探訪。設計者である“川島甲士”さんの事は・・私達の年代でも、あまり詳しくは知らない建築家だが(ただ不勉強なだけかもしれませんが・・)、60年代には大変活躍された方のよう・・しかしとにかく、この建築がスゴイ!!。こんな建築がほかにあるだろうか・・という特徴的な外観。四角錐が逆さまに・・地面に突き刺さった様な形。

津山文化センター

「斗栱で全体が構成されているのが、この建築の最大の特徴!!!」。斗栱(ときょう)とは、日本の伝統建築に見られるアイコニックなエレメントで・・軒が支える荷重を柱に伝える「柱上にある組物」の事を言う。「斗(ます)」と「肘木(ひじき)」で構成されている斗栱を・・抽象化して、リデザイン・・構造は著名な構造設計家である”木村俊彦”さん。

津山文化センター

1段、2段、3段と、深い軒が三重に・・だんだんと前方にせり出していく、日本の伝統的な建築に見られる独特な形を・・コンクリートでリデザイン。こちらもこちらも、そうですが・・「60年代、コンクリート構造による日本建築再解釈の流れ」にある代表的な建築・・川島甲士さん40才の作品。

津山文化センター

“斗栱で構成された逆四角錐”の本館横にある・・四角いヴォリュームは「展示館」。

津山文化センター

展示館の外壁が凄い!!。外壁のウネウネとした模様は・・コンクリート表面を削って作られた”レリーフ”(これだけコンクリートを斫るのに、いったい何日くらい掛かるのだろうか!!)。デザインは・・緻密な線と混沌とした色彩の作品で知られる、著名グラフィックデザイナー”粟津潔”さん・・

津山文化センター

1960年代に提案/実現された理想高く力強い・・世界にも影響を与えた、日本生まれの数少ない建築運動・・黒川紀章、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、丹下健三、磯崎新 等々が参加していた・・メタボリズムの運動にも参加されていた粟津さん・・35才の作品!!。

津山文化センター

3階の廻廊部分を見る。屋内だけでなく、屋外まで天井がラワンベニヤ・・サッシの向こう側の「斗栱」が近くで詳しく見られます・・斗栱はプレキャストコンクリート製。

津山文化センター

立体的に格子を張り巡らせた様なデザインの・・照明器具がgoodです。

津山文化センター

1階のホワイエを見る。床は黒モルタルブロック300角。タイルが張られた”アートな壁面”は、少し傾いています・・壁面のデザインは津山出身の陶芸家/白石齊さん(しらいしひとし)によるものです。この日の建物探訪ツアーの案内人が・・実は白石さん。

津山文化センター

鉄板を折り曲げたパーツによる”アートな壁面”・・こちらも白石齊さんの作品。

津山文化センター

フラットな屋根の一部をめくり上げた様なトップライト・・屋上へと至る階段を見る。

津山文化センター

屋上は雪、雪、雪・・前方の石垣は津山城(明治の廃城令で石垣以外は全てなくなってしまいましたが、森蘭丸の弟である森忠政が築いた大変立派なお城だったそうです)。

逓信省出身の建築家である川島甲士(かわしまこうし 1925-2009)さん・・他の代表作には「宮崎県婦人会館(’65)」「西都原考古資料館(’68)」「宮崎県営国民宿舎・青島(’70)」「松源寺(’69)」などなど・・があるそうです。

「建築探訪 157」- Tottori

東光園
東側庭園よりダイナミックな外観を見る

1964年竣工・・菊竹清訓さんの「東光園」を探訪。この建築・・なんと菊竹さん36才での作品!!!。取り壊されて・・もう無くなってしまった名作「出雲大社庁の舎」はその前年・・なんとか保存で存命となった「都城市民会館」がこの2年後・・(どれも菊竹さんが30代で手掛けられた!!)・・60年代までの菊竹建築は本当にアグレッシブ!!!!

東光園
アプローチとなる”建物正面”、西側外観を見る

鳥取県の有名な温泉地”皆生”に建つ、7階建て鉄筋コンクリート造の建物。この建物の大きな特徴・・大きく張り出した上部2層(5階と6階)が・・浮いている(上部から吊られている)構造・・

東光園
西側外観を見上げる

この浮いている上部を支えているのが「大柱」。大小ある4本の柱を組み合わせて「大柱」を作り・・上部の大きな荷重を支えているカタチは・・日本の伝統的な木造建築のいくつか・・「厳島神社の大鳥居」や「出雲大社の心御柱」を、連想させますが・・構造が手段ではなく、その見せ方そのものが目的になっているかの様な・・表現的構造への執念を感じざるを得ない・・

東光園
1階ラウンジを見る

貫梁と添柱によって組まれた・・コンクリート打放しの「大柱」は、室内でも存在感を放っていました・・ラウンジチェアーは剣持勇かな・・

東光園
1階ラウンジを見下ろす

庭のデザインは流政之・・竣工時に並んでいたラウンジチェアーは「ヤコブセンのスワンチェア」でしたが・・

東光園

館内には「菊竹建築の展示コーナー」があり・・東光園の石膏模型も展示されていました・・上部2層の「浮き感」が・・その真下である4階が「吹放しのテラス」になっている事で・・さらに強調・・(HPシェル曲面の)帽子のような屋根を含めた上部3層はまさに”空に浮かぶ天守閣”・・伝統的なものが持つ豊かさであったり、構造表現的なものの過剰さであったり・・並の近代建築とはひと味もふた味も違う・・菊竹さんの近代建築・・

東光園
階段室を外部より見る

階段室は壁面が全てガラス張り・・”床のみが宙に浮いている感じ”・・キャンチレバーな持たせ方で、床板は小口を見せて・・さらに踊り場部分では、外壁面から床を飛び出させて魅せる事で・・”浮いている感”を強調。

東光園階段
階段室を内部より見る

縦繁なサッシ割りのガラス壁面・・手摺り子はナイロンロープ張り、手すり支柱がgood。しかしながら・・この階段室に居ると、ちょっと”酔う”様な感じが・・少し揺れているかな?・・

東光園階段室
階段室を内部より見る

柱面に直接刻み込まれた階数表示が・・goodです。型枠板材のテクスチャーが現れたコンクリート打ち放し面・・goodです。

東光園
大柱を近接して見る

クラックが・・複数、あちらこちらに見えます・・・けっこう大きい!!!。日本近代建築の金字塔である丹下健三の「国立代々木競技場(1964)」と同年に完成した東光園・・この時代「世界のTANGE」として絶頂に達していた丹下さんに喰いさがる事の出来た・・

東光園
最上階の7階部分を外部より見る

最大の若手・・「メタボリズム建築の旗手」菊竹清訓による名作・・東光園。耐震改修も含め、早めの適切なメンテナンスが必要かと・・「出雲大社庁の舎」が取り壊されてしまったいま・・菊竹建築のもうひとつの金字塔「東光園」・・存命の瀬戸際・・なのではないでしょうか!!!

「建築探訪 153」-Aichi 7

大栄ビルチング

ブルータリズムの作品で知られる、60年代前後に活躍したアメリカンモダニズムの建築家・・ポール・ルドルフ設計のビルが名古屋市内にある・・1973年竣工の「大栄ビルチング」。もともとはプレハブ住宅の生産販売を主とするデベロッパーの自社ビル。竣工当初に見られた・・池と滝のある地下1階社員食堂から1階ロビー、1階ロビーから2階展示スペースへと・・3つのスペースが吹抜けを介して、通りまで繋がるというダイナミックな空間の様子を・・いまは見る事は出来ませんが・

大栄ビルチング

階段、壁、天井など・・「各部で丸みをつけたデザイン」を多用しているのが印象的でした・・ルドルフ作品と言えば「イエール大学」に見られる、あの力強い構成的な建築のイメージが記憶に残るが・・こちらはもう少し優しい、全面をアルミ丸パイプで覆った、細やかで装飾的とも言える・・印象の建物。竣工当初と大きく違っているのは・・(“あるある”ですが)もともとは「コンクリート打放し&アルミパイプ」で、「グレー&シルバー」の”端正な構成”だったはずが・・いまは「白ペイント&シルバー」に塗装されていたのが・・残念。

「建築探訪 152」-Aichi 6

丸栄百貨店

今年で75周年を迎えた、名古屋を代表する百貨店・・「丸栄百貨店(1953)」。上写真は北面ファサードを見上げたところ・・ガラスブロックと薄青紫色小口タイルによる、”縦長感の強い構成”と”細長い横桟”のバランスが・・(なんとなく和柄なイメージで)とても・・綺麗!!!!。1953年の日本建築学会賞を受賞。築65年。今年の6月に営業終了、9月に取壊し。設計は村野藤吾

丸栄百貨店

西側は一転して・・アブストラクトな”モザイクタイル張り”。大阪ミナミにある類似デザインの村野ビル(ドウトン)で、このデザインは見慣れていましたが・・こちらの方が、とても鮮やかなので・・驚き。名古屋の村野作品では「名古屋都ホテル(1963)」という、一度見たら忘れられない”窓枠”の・・インパクトある外観の建築がありましたが・・2000年に取り壊されました。

名古屋近鉄ビル

名古屋駅のすぐ側にある「名古屋近鉄ビル(1966)」。竣工から50年以上経っているが、大きく変わった様子はない・・少し広告で見にくいんですが、建物の足元1階部分の”ハンチのついた大梁”と”少し傾いた多角形柱”がチャームポイント。

名古屋近鉄ビル

カーテンウォールの建物ファサードを見る。パラパラとした縦桟がgoodです。道路から建物に入り・・地階に下りると、近鉄駅改札口に直結。設計は坂倉準三

〈追記〉丸栄百貨店2018年解体