
建築の隅々まで、どんな箇所の1mm1mmまで、マテリアルそれぞれの肌理まで・・本当に些細なディテールの工夫と積み重ねで、素晴らしい建築は出来上がる。ディテールの連鎖が建物全体を覆う・・Carlo Scarpa の Brion Family Tomb
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建築の隅々まで、どんな箇所の1mm1mmまで、マテリアルそれぞれの肌理まで・・本当に些細なディテールの工夫と積み重ねで、素晴らしい建築は出来上がる。ディテールの連鎖が建物全体を覆う・・Carlo Scarpa の Brion Family Tomb
何度見てもgood です。こんな写真もありました。
2009年の探訪記より・・カステルヴェッキオ美術館 (1964)
何度見てもgood です。こんな写真もありました。
2009年の探訪記より・・「ヴェローナ銀行」(1980)
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20012年の探訪記より・・「サンテリア幼稚園」(1937)
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20012年の探訪記より・・「ガララテーゼの集合住宅」(1973)
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2009年の探訪記より・・「カサ・デル・ファッショ」(1936)
ル・コルビュジェが73歳、円熟期の金字塔・・「ラ・トゥーレットの修道院」(1960) 。建物の東側に接する道路から北東側の外観を見る。敷地はアプローチとなるこの道路から下がっていく西向きの斜面地。この道路側レベルは建物で言うと3階となります。手前右の鐘楼を高くかかげている建物が礼拝堂。
左手に聖具安置所、右手に地下礼拝堂。正面にはパイプオルガン。設計を依頼したドミニコ会のクトゥリエ神父からの要望は「建物の姿は極めて簡素・・無駄な贅沢は一切不要・・」との旨。正面壁上部と両サイドの “スリット窓” が効いています。
説教壇の右手、赤い斜め壁の部分は聖具安置所・・上部には7つの “くさび型トップライト”。 コルビュジェは計画の初期段階にクトゥリエ神父から・・装飾を排した簡素で力強い量塊的な構成の美しさで知られる12世紀のロマネスク建築・・「ル・トロネ修道院」を見るように勧められたそうだ・・クトゥリエ神父は芸術への造詣が深くマチスやピカソなどとも親交があり、かつてはオーギュスト・ペレの事務所に籍を置いていた事もあったという人。
大きな3つの “丸トップライト” がある部分は地下礼拝堂。写真では明るく見えてますが・・ 実際にはこの礼拝堂内部は全体的にかなり暗い空間で・・暗闇の中、厳選された光・・スリット窓/縦長窓/くさび型トップライト/丸トップライト・・だけが刻み込まれたような空間。
黄色い間仕切壁の向こう、その下部に礼拝堂があります・・天井がないのでトップライトからの光が、そのまま真下にある地下礼拝堂に注がれます。トップライトの円筒内は青/赤/白に塗り分けられている。
礼拝堂だけでも充分に見所がありました・・さしずめ「直方体のロンシャン」といったところでしょうか。グランドピアノの様な出っ張り部分は地下礼拝堂の上部・・ 3つのトップライトが角度を変えて、自由に突き出ています。コンクリート打放し仕上の精度は、本当に”雑”と言い切ってもよい位の・・ 日本ではありえない程の荒々しさ。
ラ・トゥーレットを特徴づけている “竪ルーバー窓” や “市松状窓” のデザイン担当として、コルビュジェがスタッフの中から起用したのは・・ 構造家でもあり前衛音楽家でもあるイアニス・クセナキス・・ 数学と音楽に秀でた構造エンジニアであったクセナキスは、モデュロールを用いて見事にデザイン。この後1958年にできたコルビュジェの作品系譜の中ではかなり異質な作品である「フィリップス館」もクセナキスが担当。
四方を高い壁に囲まれた静寂の中庭・・ 波状ガラスウォールに囲われた動線路を静かに歩く修道士・・さまざまな形が詰め込まれた “不思議な幾何学の庭園” は、建物内を巡りながら思索を深めるにはgoodかも。”白の時代” とも言われる、自らもその誕生に大きく力を注いだ・・機械や幾何学の美学を昇華した・・「近代建築」のロジックや手法はどこかへ吹き飛んでしまい・・根底から変容してしまった後期コルビュジェの傑作は・・ なかなか手強い。
アルド・ロッシ (1931-97) 設計の「ガララテーゼの集合住宅」(1973) 。(上写真) 南北の長さが180mもある、長細い住棟の西側外観を見る。建物下部の規則正しく並び、建物を持ち上げている、壁柱のピロティこそが・・この建築のチャームポイント。
ピロティで持ち上げらている住居部分が2層部分と3層部分・・ といった少しの違いはあるにせよ、変化の少ない同じ形が180mに渡り反復される立面。
本当に見事に何も置いてない事にビックリ!! (住民や管理組合に対して、何かルールでの規制が徹底しているのだろうか? サインや張り紙等も1枚もない !! ) 駐車場・駐輪場や倉庫など、機能的に考えればスペースとして何かに使えばかなりの広さがある訳で・・
しかし勿論、この贅沢で非機能的な無駄使い・・ 長大な反復や余白こそが、”空間の魅力”を生み出している力な訳であり・・ 言い方は悪いが、内面的退行的なロッシ建築の「沈黙と不在が意図された」ような空間が・・こんなにキレイに保たれている事はかなり嬉しかった。 ロッシの “類推的建築” の代名詞「ガララテーゼの集合住宅」は、今までメディアで見ていたのとは異なり・・実際に訪れた印象としては・・ 快活で、健康的ですらある様な感じがしました。
チェーザレ・カッターネオ(1912-43) 他設計の「労働保険組合」(1943)。道路の奥、大きな樹の向こうにあるのが・・テラーニの「カサ・デル・ファッショ」 。カッターネオはテラーニらと共に、コモ市の都市計画などにも従事していました・・ テラーニよりも8歳年下だが亡くなっているのは同じ1943年・・ わずか31年の建築家としては短すぎる生涯。 (上写真) 南側道路から東面を見る。
もともとの建物はこんな感じで、なかなか端整な建築でした。
しかし今は印象がかなり違う・・建物頂部に付け加えられた庇が決定的か・・ 窓のあたりももなんかごちゃごちゃしてるし・・ テラーニ作品の様には大事にされていない様子。「カサ・デル・ファッショ」と共に、綺麗な元の姿で並んでいた頃は壮観だったろうな・・ イタリア アヴァンギャルドの殿堂だ・・
(上写真-下) 北側道路より東面を見る。奥に「カサ・デル・ファッショ」がわずかに見えています。
イタリア中世の街並みが残る”コモ”には、この町で設計事務所も開設していた建築家ジョゼッペ・テラーニの作品が数多く残っています。
その1. 「ノヴォコムン集合住宅」(1928)。道路に面した建物角部の1~4階が大きなアールになっていて、3階4階部は丸いガラス張りの部屋になっているのが特徴・・ ややアールデコっぽい感じもする、テラーニ 若干23歳の作品。
その2. 「ジュリアーニ・フリジェーリオ集合住宅」(1940)。テラーニが実現した最後の作品。テラーニは39歳の若さで、1943年ムッソリーニ政権崩壊直前に自殺しています。建築家として活動ができたのはわずか13年。
その3. (左) 「ポスタ・ホテル」(1931)。市からの設計変更要請があったからなのか、外観はやや慣習的。(右) どこのテラーニ建築にも共通して付けられている、テラーニの設計である事を示す “サインプレート”。このプレートはすぐ近くにあるテラーニが大学卒業直後に、ホテル1階部分のファサード改修だけを手掛けた「メトロポール・スイス・ホテル」(1927)のものです。
その4. 「ルスティチ集合住宅」(1935)。これはコモではありませんが、ミラノ市内を移動中に車内の窓越しにテラーニ建築を発見&速写 !!!
一瞬でしたが眼に焼き付けました・・ コモでも時間がなく訪れる事が出来なかったテラーニ建築はまだまだ在りました。