オルガ・トカルチュク

ふだん読まない、全く知らない・・作家の小説を「お正月に読む」ということを始めて3年目・・今年は2018年のノーベル文学賞受賞者オルガ・トカルチュクの「逃亡派」と、2011年のブッカー賞受賞者ジュリアン・バーンズの「終わりの感覚」

オルガ・トカルチュクの「逃亡派」

BIEGUNI(逃亡派) 」・・1962年生まれ、現代ポーランドを代表する作家の作品で、2018年のブッカー賞を受賞した作品でもあります・・“旅と移動”をめぐる116の断章から成る、幾つものエピソードが並行的に進んで行くという、何ともストレンジな小説。移動のカタチや目的地は様々、”旅と移動”とは、人体と世界の地図を重ねるという行為・・”探求と発見”の物語。

異郷への旅、喜びと驚き、不安定な非日常、孤独、疎外感、自己発見・・神話の時代から人は常に旅をしている・・旅が日常化した現代でも人は何かを探して旅に出る。“中欧的”な文体/構成/理解/感受性で描かれる・・不連続で、多様で、混沌として、偶発的で、拡散的で、非線条的な・・“不明瞭で割り切れない世界”・・この世界の在り方に拮抗できるのは「わたし」だけ・・・

3年の歳月を掛けて執筆されたという“中欧チックな紀行文学”

「偶然こそが事件の推進力です。中欧の作家の語りに関する断片性への嗜好は、他のどの場所の作家よりも強いと思います。」
by Olga Tokarczuk

パトリック・モディアノ

“お正月休みに読んだ”・・2冊。

“現代フランスの最も偉大な作家”とよばれるパトリック・モディアノ・・2014年のノーベル文学賞受賞者。モディアノ作品の感想を一言で書くと「淡々とした抑制の効いた平易さの中の不在感と喪失感」。読み進めても、物語全体には捉えどころがなく・・リアリティも希薄、全体がぼんやりと霞んだまま・・時間と記憶、不在と喪失を巡る・・感情移入がなかなか難しい物語。

パトリック・モディアノの二冊

Dans le café de la jeunesse perdue (失われた時のカフェで) 」・・パリ左岸のカフェに現れる謎の女性”ルキ”について・・彼女に魅了された複数の語り手によって、”繰り返し”語られる”不在の記憶”・・各章ごとに、それぞれ異なる語り手で語られる物語を通して感じられるのは・・”悲しみと喪失感”。

Livret de famille (家族手帳) 」・・”生きるとは、ひたすらに記憶を完成しようとすること”。アイデンティの欠落、不確かな記憶の積み重ね、脅迫的なイメージとしての負の歴史・・モディアノ作品において大きな位置を占める自らの出自・・占領下の時代を生き抜いたユダヤ人である両親の記憶・・自伝的要素が強い15章からなる物語。

「人間の捉えがたい運命を呼び覚まし、ナチス占領下の社会を明らかにした〈記憶の芸術〉」とは、ノーベル文学賞から送られた受賞理由の言葉。

カズオ・イシグロ

カズオイシグロ

「A Pale View of Hills (遠い山なみの光) 」・・遠い夏、戦後まもない長崎で出会った”あの母娘”がそうであった様に・・僅かな光を薄闇のなか探し求める様に生きてきた主人公が、半生を思い返すかたちで”日本の記憶”を語る・・カズオイシグロのデビュー長篇。作品全体を覆うイシグロ作品の空気感と小津安二郎の映像を思い起こさせる日本的雰囲気が・・印象的な作品でした。

「Never Let Me Go (わたしを離さないで) 」・・幼い頃から一緒に育った親友たちとの日々に思いを馳せながら・・夢見ていた僅かな希望が絶たれ、残酷で不条理な現実を”提供者”として、ただ受け入れるしかなく・・全てのものを奪われながらも、限られた人生を”記憶を支えに”・・生きる主人公達の姿が忘れられない、精緻な描写で描かれるノスタルジックなSF作品、カズオイシグロの代表作。

「Never・・」を読んでいる途中からずっと・・雨のなか白い鳩を抱いて逝ってしまった、あのレプリカントの美しい姿を思い出さずにはいられませんでした・・フィクションだからこそ伝わる真実/心情・・小説力について再認識。

前川國男の本。

国立西洋美術館」の世界遺産入りで・・何かと話題の近代建築。世界の近代建築の巨匠は確かにル・コルビュジエですが、日本の近代建築の巨匠といえば、この人以外にいない “前川國男”・・今週のt/rim designは、8月3日より始まる、今年で3回目となる「建築家のしごと展」に向けて、いろいろと準備中・・

「桂離宮」

ブルーノタウト桂離宮

お気に入りの本、ブルーノ・タウトの桂離宮・・”永遠なるもの” や “日本建築の世界的奇蹟” など8つの小論。桂離宮や伊勢神宮、孤篷庵や日光などの探訪日記。そして”桂離宮の回想” と題された書帖・・タウトの建築探訪 – 絵日記!!!

「DA DENKT DASAUGE」 (ここでは眼が思惟する) との言葉と共に27枚の書帖は始まり・・探訪ルートの順のまま、筆による言葉と絵で、探訪が回想される。タウトの感動を、タウトの言葉&筆画という低解像度の情報で・・再トレースするという。アナログな感じがとても楽しい本。

「建築-新しい仕事のかたち」

松村秀一先生の「建築-新しい仕事のかたち」を読む・・
1970年頃から40年近くにわたり、年間100万戸を切る事のなかった日本の新築住宅の着工件数は・・ここ数年100万件を超える事はなくなり・・今後も100万件を超える事はないそうだ。その様にして建てられてきた新築住宅の数は、とても膨大で(実に6000万戸)・・いまやその数は日本人1人あたり0.48件。つかわれなくなった住宅・・空家の戸数は800万戸。日本の総住宅数の1/7以上が空家となっている状態・・膨大な数の「箱」を戦後つくり続けてきた結果、日本にはいま多くの余剰空間が溢れているという事だ。

松村先生のこの本では・・日本でいま余りに余っている「箱」を、迷惑な物とは考えず、むしろそれは資産なんだと・・“空間資源”という資産として、この膨大なストックをいかに活用するべきかという・・お話が数々の具体例とともに紹介されています。箱を場として再生する仕事・・その可能性は充分に期待を持てるという事のようだ。
「箱物」という”ハードなモノづくり”においては、理想的な “現実との接触” を持ち得なかった日本の建築業界が・・「場」という”ソフトなモノづくり”においては、理想的な“つくる回路”を取り戻せる事に・・期待をしたい。

Casa Brutus

ホテルオークラ東京

先日・・「Casa Brutus」1月号を買いました・・
まだ歴史が浅い近代建築はその魅力や価値が、一般的には理解されにくく。それを守る制度もまだ充分でなく・・ 価値のある貴重な建築作品であっても・・資本主義という大きな経済性の波に負けてしまう事は・・少なくありません。

日本の名作近代建築の紹介をする特集号なんですが・・ページを多く取って、表紙を見ても分かる通り、いちばん力を入れているのは・・
「ホテルオークラ東京のロビーは壊さないで!!」というエール。

本館の建替えが決定している「ホテルオークラ東京」(1962)・・特にそのロビー空間は、国内だけでなく海外にも信奉者が多い・・日本近代建築の珠玉と言っても過言ではない空間。失なわれてしまう前に・・ 再訪したいですよね。

村上春樹 3

見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。
一時期、十年も昔のことだが、・・

村上春樹さんの2作目・・ 基本的には前作の続編。主人公の”僕”、友人の”鼠”、ジェイズ・バーの”ジェイ”、”女の子”・・登場人物もほぼ同じ。前作で(1970年夏)大学生だった21才の”僕”、3年後(1973年秋)大学を出て東京で翻訳事務所を始めている。物語はまず1969年の春・・大学での”直子”との出会いと、1973年春に直子(恋人であったが今はもう死んでしまった)の故郷を訪れた話・・から始まる。

これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、「僕」たちは七百キロも離れた街に住んでいた。
一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。

東京で順調に翻訳事務所をしながら、ただ一人深いプールの底にすわりつづけ・・ るようにモラトリアムな感じで暮らしている”僕”と・・東京から700キロ離れた”僕”の故郷でもある街でモヤモヤを抱えて、暮らしている”鼠”の・・エピソードが交互に語られる。今回の物語では、”僕”と”鼠”は話す事も、会う事もない・・物語の大半は、”僕”が住んでいる部屋に転がり込んで来た「双子の女の子」、「配電盤」、「ピンボールマシーン」・・

「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

僕に向かって何かを語ろうとする人間なんてもう誰ひとりいなかったし、少くとも僕が語ってほしいと思っていることを誰ひとりとして語ってはくれなかった。

メインは作品のタイトルである事からもして「ピンボールマシーン」について・・日本には3台しか輸入されていない 「シカゴのギルバート&サンズ社の1968年のモデル、”悲運の台”としても知られる・・スリーフリッパーのスペースシップ」というピンボールの機種を探し求める話。

しかし勿論ピンボールマシーンは何かについての比喩なんでしょうが・・物語の多くは、この「ピンボールマシーン」(あるいは「配電盤」も含めて) という機械についてのエピソードや会話・・

彼女は素晴しかった。3フリッパーのスペースシップ・・、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。

あなたのせいじゃない、と彼女は言った。


終ったのよ、何もかも、と彼女は言う。

前作よりも、「僕と鼠」は “どうしようも無い” 感が一杯になってきていて・・ 前作ではそんなものの影が「僕と鼠」の軽妙な会話と若さの勢いで・・ある程度は緩和されていた。しかし今回は物語全体に”勢い”がない・・前作の設定では「僕と鼠」は2人とも大学生くらいで、若さが”疾走”していました・・そんな2人も社会人の年齢・・700キロと離れ、コミュニュケーショもなく、それぞれの場所で苦闘している。

主人公である「”僕”の現実に対する距離感」の取り方は・・前作に続き、あいかわらず微妙な感じで (基本的には諦観したフラットな心境とシンプルなライフスタイル・・出てくるセリフや姿勢には、常に気負いがない・・そしていつもどこかに陰がチラついていて・・でも何とか少しでも前進しようとしている) ・・そこが”80年代的” でやけに心に響くんでしょうか?

「ねえジェイ、人間はみんな腐っていく。そうだろ?」

「ねえジェイ、俺は二十五年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がするんだ。」


「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ・・」

「僕と鼠」の調子だけでなく、たんたんと交互に展開していく”それぞれの世界”という構成方法、2人の会話レス、文体の調子・・すべてが全体的に前作より落ち着いている感じ・・まさしく前作が夏で、今作は秋。エンディングもなんとなく終わった前作に対して・・

“僕”は・・探し求めていたピンボールマシーンと再会&決別。
悩み続けていた”鼠”は・・女とジェイと街、全てに別れ。 

今回のエンディングではある程度はっきりして物語は終わり・・”鼠3部作”の最後となる・・村上ワールドの大きな転機ともなる、次作へと続く。

村上春樹 2

新聞で偶然彼女の死を知った友人が電話で僕にそれを教えてくれた・・

いつも同じ席で本を読み耽っていた、”僕”が20歳の秋に出会った”女の子”が、26歳で死んだというプロローグで始まる・・処女作から続いた”鼠三部作”の最終章。これまでの前2作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」)とは大きく違う感じ・・ ページ数からして、前2作は1日でもすぐに読み切れてしまう程度・・しかし今作は上下2巻でヴォリュームからして、これまでの3倍以上。

前作の設定(1973年秋)で、翻訳事務所を友人としていた・・独身だった”僕”。今作の設定(1978年夏)では、広告コピーの下請けをしていて・・結婚するも4年で離婚、独身になって・・3日に2日はバーでサンドイッチとオムレツを食べている”僕”。(離婚した彼女は前作の翻訳事務所で働いていた女の子・・彼女は”僕の友人”と寝ていた。)

出版社のアルバイトをしながら、”耳のモデル”をしている “キキという女の子” に出会い・・あと10分で電話があるわ、羊のことよ」・・ 大冒険の物語が始まる・・

「P生命のPR写真、これをやめて下さい。」

ある日、”鼠”からの手紙が・・最初は1977年12/21の消印、”鼠が書いた小説” とともに青森から送られてきた。2番目の手紙は・・1978年5/7の消印、”2つの頼み”とともに北海道から送られてきた・・「ジェイと彼女に “さよなら” を伝えてほしい」・・ そして

“キキの予言”と”鼠のもう1つの頼み” で始まる・・”羊をめぐる大冒険”。政界の大物、高級コールガール組織、ジンギス汗、羊博士、北海道の羊史などなど・・これまでの作品にはない、大掛かりな、込み入ったエピソードに彩られて・・巨大な山の山頂を裾野から目指す様に・・クライマックスへと至る物語。

しかし・・至ったのは”鼠”と”ジェイズ・バー”。

村上春樹 1

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は・・

という忘れられない印象的な書き出しと共に ” 軽妙な文体と会話による「僕と鼠」の物語 ” が始まる・・村上春樹29才のデビュー作。
たいしたストーリーは無い・・大きな出来事もなく、友人とビールを飲み、女の子と知合い、バーに通い、軽口を叩き、音楽を聞いて・・ 大学4年生の・・僕の故郷での “退屈な夏休み” が・・終わっていく。

単行本で150ページ程のすぐ読み終えてしまうボリューム。作家宣言とも言えるチャプター1は、興味深く・・注意を引くユニークな内容と文体で、何度も読み返してしまうが、その後は基本的に・・ バーでビールを飲んで、無駄話をしている感じの物語。

読後に残る印象のほとんどが・・ ストーリー本編とはあまり関係なさそうな、寓話の様なリアリティのない、どうでもいい様なエピソードの数々と、軽妙な会話の空気感がつくるリズム・・

「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。」

一見したところ、ゆるりと生きている・・ そんな表向きの、物語の大半を占めている登場人物達の表情とは・・別の感じが強く印象に残る。

表面的には、いつでも「何でもない様な」主人公の”僕”・・ 心の内では、いつも出口を捜しているのに・・ “どうしようも無さ” にしか行き着かない。主人公の”僕”には、防ぎようがない何かに・・少しずつ迫られながら、物語も夏休みも終わっていく・・

「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。」

寓話的なエピソードや軽妙な会話が作り上げる・・ “何でもなさそうに見える日常” ・・そのエピソードが多ければ多いほど、面白ければ面白いほど、饒舌ならば饒舌なほどに・・反対の心象が強くなってくる。
幸福そうに見える未来へと向かう事を、誰もが困難ではないと感じられる訳ではないし・・ 通り過ぎていったものたちの不在を、誰もが納得できている訳ではない・・ 有無も言わさない様なものに対する “どうしようも無さ” ・・

文章を書くことは自己療養へのささやかな試み・・ 何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない・・」

という作家にとって・・この作品は”救済”のメディアとなり得たのだろうか・・村上春樹さんは初期の2作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」)を “自分が未熟な時代の作品” とも言われているそうですが・・
でもしかし、作家への決意表明でもありスタートでもある今作は、村上さんと”僕”と”鼠”の・・若さが溢れていて。その空気感や風景が今も新鮮で・・ やっぱり「風の歌を聴け」は goodですよ。