備中国分寺

備中国分寺

先日、岡山県総社市にある「備中国分寺」へ息抜きに出掛けました・・「国分寺」とは天平時代に聖武天皇の発願で鎮護国家を目的に北は仙台から南は鹿児島まで全国に60箇所以上建てられた官寺・・・創建時である天平時代の建物が残っている様なお寺はないと思いますが、その7割以上が、現在も国分寺を名乗っているorもとの国分寺の跡に建っているようです・・

黄色一面に埋め尽くされた菜の花畑越しの備中国分寺の写真は観光ガイド等でよく見掛けますが・・(上写真)は桃畑越しに望む五重塔。
国分寺もまだなく中央政権の力が及ぶ前の時代・・このあたりでも前方後円墳が多数つくられ・・内海に面していただろう(倉敷市や岡山市もまだ海の中だった頃)・・このあたりの地勢を見ていると・・古代において畿内や出雲国と並び有力な地方国家であった吉備国の栄華が偲ばれます

屋根

(左上)伊勢神宮外宮/古殿側からみる四重の塀の向こうに茅葺きの屋根
(右上)桂離宮/中書院-楽器の間-新御殿と雁行する柿(こけら)葺きの屋根
(左下)元興寺/飛鳥時代のとても古い瓦も使用されている屋根
(右下)大宮御所 御常御殿/大きく、反りが美しい寝殿造りの屋根

“屋根という建築的要素”は近代建築が始まるまで、古代寺院建築(or先史竪穴住居)から非常に長い期間・・1000年以上という単位で大きくは変化のなかった普遍的と言ってもいい要素のひとつでした・・
近代建築技術の進歩によって初めて”屋根がない”建築が現れ・・それは長い建築史から見ればここ最近20世紀以降の事・・・近代以降、大きな/公共的な建物は鉄筋コンクリート造/鉄骨造でつくられ”屋根がない”ことが当たり前なのですが、昔は逆に建物が大きな/公共的な建物であればある程”屋根が大きい”という事が重要でした・・・
雨が多く湿度の高い日本のような地域では”屋根が大きく&軒が深く”ある事は快適な居住環境を得るためには合理的/機能的な選択です・・・しかしそれだけが理由ならば、「そんなにも大きくなくてもいいだろう」と言うくらい日本建築の屋根は大きく・・・合理/機能だけではなく、そこには象徴的存在としての”大きな屋根”への言葉には成し難い様な「憧憬」のようなものがDNAに刻まれているのではないでしょうか・・・

「建築探訪 26」 -Shimane 4 /出雲大社

出雲大社

天照大神が大国主大神の御功績を称え、諸神に御造営を命じられたという・・毎年秋の”神在祭”には全国の八百万の神々が集う・・出雲大社が「平成の遷宮」にあたり、普段一般の人は全く立ち入ることの出来ない御本殿を特別に拝観させて頂けるとのこと・・現在の御本殿は1744年の造営以後-1809-1881-1953と3度の遷宮を行い、今回で4度目の遷宮となります(遷宮とは神社本殿の造営/修理に際し神体を移すこと)・・・出雲の遷宮記録を見ると 65年後(1回目)-72年後(2回目)-72年後(3回目)-55年後(4回目)となっており・・その機会を逃すと次は見られそうにないので・・最終日に参拝へ行ってまいりました・・御神体はすでに仮殿(拝殿)に遷され、本殿に還られるのは修理の終わる5年後だそうです
(上写真)2重の塀に囲われた本殿は普段は遠くから見るだけしか出来ません・・しかし今日は本殿の縁には特別拝観に訪れた人達で賑わっています・・

出雲大社

本殿の縁は地面から4.5mほどの高さ、縁から屋根の棟まで16mほどの高さ、総高さは24m・・・やはり大きいです、近くで見るとその大きさを再確認できました・・想像してみて下さい 7階or8階建てのマンションくらいの大きさですから・・さすが「天下無双の大廈(たいか)」と称えられる大きさは 神社建築としては比類なき壮大さ・・
拝観順路は妻側の階段から上がり、高欄のついた幅広い縁をぐるりと一周して、南面する妻側正面に戻り、開口部(蔀戸and開き扉)から殿内を拝観させて頂きました

殿内の天井板に描かれている鮮やかな”八雲之図”・・殿内は撮影禁止ですのでイラストですが

「建築探訪 14」 -Shimane 2 /神魂神社

出雲大社と神魂神社

出雲市の出雲大社」(左) と、松江市の「神魂神社」(右) へ行って来ました・・
「住吉造」の住吉大社(大阪、1810)、「神明造」の伊勢神宮(三重、1993)と並び称される、最古の神社形式である「大社造」の出雲大社(島根、1744)・・

出雲大社

「出雲大社」(上写真)が大きい事は知っていたが、初めて見る出雲大社-本殿は思っていたより大きかった・・唖然とするくらいに大きかった・・「さすが日本最大の神社建築」・・異様な姿には迫力が満ちていた・・本殿は塀で囲まれて近くに寄れないのだが、もし側で見たならばもっと大きいのだろう、総高24mはマンションなら8~9階並みの大きさだが・・
平安時代においては東大寺大仏殿よりも大きく総高50m近くあったそうだから今の本殿の倍だ・・縁の下の脚だけが伸びた状態だった様だが10階建てのマンションの頭を軽々越える高さだ・・信じられない光景を平安時代までの人達は目にしていた・・平安時代末までは何度も”転倒” した記録が諸書にあり、その度に再建されたそうだ・・

神魂神社

松江市南東の大庭町という森の中に楚々として建つ「神魂神社」(上写真)は「大社造」としては最古のもので1583年の建築、現在の出雲大社本殿よりも160年も古い。伊勢神宮に仁科神明宮があるように、出雲大社に神魂神社が祖型としてある。出雲大社は神魂の縦/横/高さをほぼ2倍して造られた・・高さ/長さは伸びるが材の太さは比例して大きくならない分、大社の方が間伸びして見える・・神魂の方がプロポーションが洗練されて締まっていて良い・・さすが出雲大社のオリジンだけはある。
西沢文隆さんの著によると、もとの神魂神社は今の様な”素木”ではなく”丹塗”であったに違いないそうだ、本殿内部には 朱塗りの天井を背景に五色の九重雲 が色鮮やかに描かれた空間が今もあるそうだ・・

神魂神社本殿
神魂神社本殿の横に並んで建つ小さな末社 「貴布弥稲荷神社」(室町時代) は、伸びやかな屋根と縁の浮き具合が美しい・・「二間社流造」は類例が少ない珍しい神社建築形式

「建築探訪 08」-Nara/室生寺

室生寺

大阪市内から近鉄電車に揺られ1時間、バスに乗って数十分・・奈良山中に佇む、8世紀末に興福寺の末寺として創建された「室生寺」。(上写真右) “懸造” ・・脚が伸びている部分の姿が印象的・・ 中世のリフォ-ム。
小学生の頃、遠足でここを訪れた時の印象は大人になっても忘れる事はなかった・・強く印象に残ったその理由が何だったのかと考えてみると・・それは建物そのものではなく、建物同士の配置に理由があったのではないかと・・ 
古都奈良を代表する法隆寺・薬師寺・唐招提寺・・等の多くの寺院が平坦な場所を塀できっちり四角に囲い、その中に塔・金堂・講堂を配置(これを「伽藍」と言います。)する方法が非常に大陸的/中国的な影響が強い事に比べ、室生寺の伽藍は山の高低差をそのまま利用し、地形に溶け込む様に配置されています。6世紀に「輸入」された仏教寺院建築が日本の風土/感性に適応したものへと変わり始めたと言っていいのでしょうか・・

室生寺

木漏れ日が時より差し込む 深い樹々の中、何段もの階段を頂上である 「奥の院」 まで 歩を進める毎に、自然/地形に隠れていた金堂や講堂や塔が少しづつ “現れては消えていく” その行程・・ “奥へ奥へと 続いて行く” その空間意識 ・・ その様な感覚が、忘れ難いものとして子供心にも響きました・・

タウトの画帖 「桂離宮」

ブルーノタウト桂離宮

先日古本屋さんで購入した「桂離宮」(1943) 。心惹かれたのは、巻末の・・タウト筆による、”スケッチ&メモ” が付いていたから。

ブルーノ・タウトは1880年生れのドイツ人建築家。アールヌーボーの熱狂の後、”ドイツ表現派”の建築家として1910年代には活躍を始め。クリスタルをイメージした”ガラスと鉄”による「ガラス・パビリオン」(1914)や、「アルプス建築」(1919)と称した幻想的なドローイングの仕事や、ベルリンでの大規模なジードルンク(労働者の為の衛生的な住宅団地)を手掛けた1920年代の活躍で、よく知られた、ヨーロッパの一流建築家。

ブルーノタウト桂離宮

その “ヨーロッパの一流建築家” が1933年5月3日に、亡命者として敦賀に船で着いた翌日(タウト53才の誕生日)に・・桂離宮を訪れ・・非常に感激賞賛・・「言葉に出来ないほど美しく、涙がこぼれてくる、パルテノンに比すべきもの・・円熟の極地と小児のごとき純真無邪を具えている・・」とKATSURAを賞揚し・・日本美の最高表現と、認め評したのは・・有名な話。

ブルーノタウト桂離宮

この画帖は1934年5月7日に1年振りに・・4時間半じっくり再拝観した、強い感銘をそのまま一気に筆で・・(5月8日と9日の2日間で)完成させたそうです。描写力の高い写真や、精緻な文章による解説ではなく・・荒々しいとも言える筆による表現は、彼の興奮した感動をそのまま描写したいという、想いが伝わってきます。タウトのスケッチに描かれている見学順序は、今の特別拝観コースとほぼ同じ・・

ブルーノタウト桂離宮

この画帖の出来には・・本人も深く大満足・・出版を念願していたが、生前には果たされず。彼は1936年10月には3年半の日本滞在を終え、トルコに向かい。1938年トルコにて客死。そして1942年に出版されたのがこの本。
「IN KATSURA DENKT DASAUGE」 (桂離宮では眼が思惟する)

ブルーノタウト桂離宮
KATSURAへ再訪する2日前に・・タウトは小堀遠州の忌日に、大徳寺孤篷庵へ赴き・・遠州の墓に花を供え、“偉大な建築家”に敬意を表したそうだ・・
ブルーノタウト桂離宮
出版は・・”第三版 昭和18年4月10日” とあり。帰ってから・・よくよく見ていると “裝幀 龜倉雄策”とあり、亀倉さん戦前の仕事による・・本だった事を発見し、感激!